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旅の達成感に通じるもの|アルボムッレ・スマナサーラ

スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)の僧侶であるアルボムッレ・スマサーラ長老は、初期仏教の伝道、ヴィパッサナー瞑想の指導を日本で行っている。講演会や数々の著作、瞑想会の実施など、長老はお釈迦さまの言葉を通じて、仏教が現 […]

10/07/2011

スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)の僧侶であるアルボムッレ・スマサーラ長老は、初期仏教の伝道、ヴィパッサナー瞑想の指導を日本で行っている。講演会や数々の著作、瞑想会の実施など、長老はお釈迦さまの言葉を通じて、仏教が現代社会を生きるうえで実践できる教えであることを広く伝えている。仏教というのは、教徒に「信仰」を求めるほかの宗教とは異なるということ。いまこの場で役に立つ、現在を幸福に生きるための教えであること。科学的で精密な論理に基づく仏教の瞑想には、無心で歩を前へと進めるひとり旅と類似点があるのではないだろうか? 文化の垣根を越え、さまざまな国で普遍的なお釈迦さまの言葉を伝える長老に、その教えの本質について話を聞いた。
仏教の歴史が根づいた国からの来日
──スリランカでお生まれになって、熱心な仏教国ではない日本に来られて、文化的な壁を感じるなどの苦労はありましたか?
「呼吸をするように当たり前のこととしてスリランカで仏教を学んできた私にとって、日本で仏教を教えることになったのは、かつてない挑戦でした。日本では、仏教があったとしても大乗仏教で、それも一般とは離れた別の世界です。そして一般的には、アメリカやヨーロッパのものが貴いと思われていて、アジアのものをとくに好まない傾向があるでしょ? この極限までにスリランカと異なる環境で、自分が何を語ることができるのか、それがどれだけの挑戦だかわかりますか? でも、なんてことなくできてしまうんです。仏教の教えを学んで、実践していけば、誰とでも仲良くなれますし、どこでも生活できていけるという自信につながるわけですから」
──スリランカに根づいた仏教の教えに子供のころから慣れ親しんできたことで、環境に関わらず揺るぐことがないということですね。
「スリランカは紀元前200年のころから仏教国です。大変歴史が長い。だから我々にとって、『スリランカ人の考え』と『仏教』は同義語のようなものなんです。模範となるのはお釈迦さまの教えですから、昔から変わりません。その仏教というのはものすごい哲学です。ただ、いわゆる哲学者にとっての哲学と違うのが、『このような生き方で幸せになることができるんだよ』と、日ごろの生活で具体的に実践できる方法を教えてくれることです。そして、ほかの宗教にあるような、迷信みたいな信仰はありません。神さまのいうことを聞きなさいと束縛するわけではなく、その教えを納得できるまで反論を繰り返して、人間を中心に喋り、考えるものです。これほど人々に自由を与える教えはありません。仏教においては、自分が主人なんです。どんな環境に行っても自分を管理するのは自分ですから、そこでやるべきことをやっていれば、困ることなどありません」
仏教が約束する自由と平等
──政治と宗教が結びつくと、その自由が奪われてしまうことがあります。仏教の教えを実践することと、ある政治の仕組みがある現実社会を生きることとに隔たりを感じることはありませんか?
「まず大前提として、仏教は非暴力の思想ですから、政治に暴力で抵抗することはありません。それと、我々は現実社会で教えを実践する現実主義者ですから、その時代の政府がやっていることは、まあ素直に聞いてあげる(笑)。もしあまりにひどいことをやる政府だったら、何がしかの手段で倒そうとする。だから、スリランカでは選挙があるたびに政府が替わります(笑)。仏教から見れば、現在の政治制度としての民主主義は本当の民主主義ではありません。政治に支配された状態で、人間が自由を獲得することなんてできません。そうした現実社会で、暴力なしに民主的な世界を作る教えを伝えようとするのが、仏教の優れた点です」
──ですが、仏教国のミャンマーでも、軍事独裁政権が敷かれ、人々が弾圧されています。
「それは非常に難しい問題です。ミャンマーの国民はとても優しくて立派なんですが、その優しさが仇になっているといえます。実際のところ、軍事政権といえば世界のどこも認めていないでしょ? だけど、その政権の人々がお寺や瞑想道場に行ったりして、『仏教を守っているんだぞ』と国民に示しているんですね。それは自分の立場を、自分の命を守るためなんですが、そういった態度を示されると一般の仏教徒は反対運動を起こしにくい。以前、私もミャンマーで瞑想の指導をしたことがあるんですが、お寺の周りに軍隊や警察の警備の人が大勢集まって、異様な状態になっていたことがあります。お寺の人に聞いたら、軍の指導者と大臣が瞑想をするためにやってくるということだったんですね。だけど、その政府の偉い人たちも道場に入ったら、一般の人と同じ服を着て、同じご飯を食べて修行するわけです。そうなってくるとちょっと難しい。同じ仏教徒だ、という兄弟意識が生まれますからね」
──自分たちの自由を奪う兄弟、というのは国民にとってとても複雑な相手です。
「私は基本的に、政治的なことを話す立場の人間ではありませんが、だけど仏教は世の中を観察するのでもう少し話させてもらいます。ミャンマーは軍事政権で、しかも長い間、その独裁が続いています。最近、珍しく暴動が起こって何名かが亡くなりましたが、でも、イラクやパレスチナのように、毎日のように死者が出ることはありませんよね。とにかくギリギリまで平和な手段で、民主主義的な世界を生み出そうというのが仏教の根本にあるから、あのミャンマーにおいても惨事が起こりにくいのです」
──非暴力の思想が無条件に成立することで、そのミャンマーのように苦しむ人もいるわけですよね。非暴力の背景となる思想について教えてください。
「すべての生命は平等、という考えです。一神教の神さまのように、いうことを聞き入れさせるだけで反論を許さず、束縛するような親分は仏教には存在しません。仏教は対話の世界です。犬や猫や虫は話さないけど、どんな生命にも平等に生きる権利がある、ということを仏教は知っているのです」
ヴィパッサナー瞑想の科学性
──自分の動作を頭で把握して、動作によって起こる感覚の変化を感じ取るヴィパッサナー瞑想の目的は、自分を知ることだと考えて問題ないですか?
「ええ、基本的には、自分の組織を細かく分解して、物体は物体として、精神は精神として、それぞれの機能を理解するための分析がヴィパッサナー瞑想です。要するに、自分というシステムの勉強です。もし、車を小さなネジの1本まですべてをバラして、ひとつひとつの機能を知って組み立て直せたら、その人は車のシステムを完全に理解したことになるでしょ? それと同じです。生きているのは自分。正しく生きていくために、自分を正確に理解する必要があるのは明白なことです」
──神によって創られた存在としてではなく、現実を生きる人間として自分を把握するのですね。
「神さまなんてインチキは休み休みいってほしいですよ(笑)。そんな証拠もないことを信じてしまうのは、まず自分を知らないからそう考えてしまうわけでしょ? 自分を産んでくれたのは親であって、なにかあったときに手助けしてくれるのは母親と父親です。それなら、神さまのいうことを聞くのではなく、両親のいうことを聞くべきでしょ? 無条件で自分を心配してくれるのが両親なんだから、もし親のいうことに逆らったらひどい目に遭いますよ」
──科学的な物事の見方が大前提なんですね。
「ここに私が生きていることは自分でも認識できるハッキリした事実ですし、私が悪いことをしたら私に跳ね返ってくる。とても単純なことです。自分の生き方次第で、人生の結果が出てくるわけです。そうすると、『私とは何なのか分析してみよう』となり、それを追求すると、どんな生命も平等で同じ機能を持って生きていることがわかってくる。自分を知ることで、あらゆる生命を知ることになる。そうすると、生きとし生けるものの生命を平等にとらえると同時に、神の存在が消えてしまいます。何にも支配されていないことがわかりますからね」
──自分を分析して、理解するというプロセスは、本当に科学的な研究のようです。
「ものを調べるというのは、仏教的な習慣なんです。私が6歳ぐらいのとき、蓄音機が家にあったんですね。父親は修理が得意でしたから、どこかで壊れると家に持ってきて、直してあげていました。部品をひとつひとつまでバラして、修理してまた組み立て直す。そして、大事そうにレコードをかけるんです。どうして音楽が流れるのか、私は不思議で仕方なかった。蓄音機は壊れても修理できるから、いくら触っても父親は何もいわないんですね。そこで、あの黒い円盤になにか秘密があると考えました。でも大事にしまっていて、父は触らせてくれません。あるとき見ることができたんですが、溝にはどうやら何もない。中央のラベルが怪しいと思った。一生懸命はがそうとしても、ガッチリついていてとてもはがれない。なおさら怪しいでしょ(笑)? それから少したって、知り合いの家でついに割れたレコードを見つけて、両面のラベルの間の部分が見えたけど、でも何もなかった。それからまた調べたら、針を触ると音が出て、それを溝に置いて回すと音楽が流れると6歳にして発見しちゃったんです。自分のことを何も知らない場合は、自分たるものに何かある、神さまに支配されている、と思っちゃうでしょ?やっぱり研究しなくちゃいけないんですよ」
瞬間ごとの達成感が幸福へ
──いまという瞬間に注意を集中して、いまここにいる自分に気づくというヴィパッサナー瞑想でなにかを発見することは、ひとり旅で自分の世界に洞察を働かせることと似ている気がします。
「知らないことは怖いというか、不安なんですね。だから我々は、発見するために探検をする。旅も同じですね。全然言葉が通じない人に出会ったら、どうやってコミュニケーションをとるか考えて、自分が知りたいことを知ろうとします。自分なりの発見を求めて、とにかく成功させるためにその瞬間ごとを一生懸命に生きるわけです」
──遠い先の目標を目指すのではなく、瞬間ごとに集中するのが重要なんですね。
「目標を設定してもいいですけど、妄想にとらわれてはいけない。いま何をやるのかが重要ですから。だって、いまの瞬間を生きているわけでしょ? 受験や仕事などで悩んでしまう人もいますが、日々、1分単位で挑戦をしていたらいいんです。今日1日を頑張ったら、充実感で終わるでしょ? そうしたらまた明日も頑張るでしょうに。時間はずっと進むものであって、停止しません。だから、いまするべき挑戦をすれば、それでいい。我々は時間をとても無駄に使っています。妄想ばっかりだから。きちんと時間を使わないといけません」
──妄想を消し去ることも、自分を観察する瞑想で可能になるわけですね。
「タバコがやめられなかったり、勉強に集中できなかったりするのも妄想があるからで、その原因を取り除けばすぐに変われます。心のトラブルですよ。妄想を続けるんではなく、研究すればいいんです。妄想がなければ、欲も怒りも憎しみも嫉妬も悲しみも悩みも生まれません。すべて妄想の結果ですから。事件が起こったり、悩む人が多い現代には、論理的で科学的な仏教のような教えが必要です。お釈迦さまの言葉を理解し、本人の意思で考えることができたら明るく幸せに生きることができるんです」
──不快感やストレスを引き起こすような外的な要因も、妄想に過ぎないんですか?
「科学的に見ると、自分の体に何かの情報が触れてるだけ。その刺激で、情報そのものを知ろうとせずに妄想しているだけです。仮に同じものを3人が見たとして、3人がそれぞれ何かを感じたとしたら、それは主観が現れているからにすぎません。主観はあくまで主観であって、事実ではありません。情報そのものを冷静に見ることができれば、ほとんどの問題を解決することができますよ」
──主観と妄想。すべて、自分を知ることとつながっているんですね。
「だから、自分を知ることで無我を発見できるんです。つまり、いろいろと研究することで、発見するだけに過ぎません。自我がなくなるわけではなく、自我なんて最初からないということに気づくのです。自我があるという錯覚があるから、苦しむんですよ。その錯覚が消えると同時に人が変わって、いつでも淀みが無くて、明るくて、軽くて、活発で、瞬時に判断できる心を持つことができるんです」
──それが解脱ということですか?
「自分を完全に理解して、無我を発見することは問題の最終解決になります。最終的な答を見つけることがつまり、解脱や涅槃です。なすべくことはなし終えた、という勝利の宣言のようなものです。人生を左右する業のはたらきもありますから、すぐにすべてを理解することは簡単ではありませんが、真剣に瞑想を行えば、どんな人でも幸せな道を自分で築くことができるんです」
──そうして幸せになるために、瞬間ごとを大切に生きていくわけですね。
「『幸せ』という言葉を正確に定義することができますか? 例えば、結婚ができるかどうか、家を建てられるかどうか、というような一時的なことではなく、もっと人類誰もが獲得できる普遍的なものであるはずです。それが何かというと、自分が挑戦したことを成功させ、達成感を得られるかどうかです。我々は毎日、いろいろな問題にぶつかりますが、その都度、解決すればいいんです。その達成感が幸せなんですよ。全然特別なことではなくて、日々の生き方そのものに幸せがあるんです。いまの瞬間を幸せになってください。そうすれば、次の瞬間も幸せになれますよね。その瞬間ごとを幸せに生きるための方法を教えてくれるのが、仏教なんです」
アルボムッレ・スマナサーラ
1945年、スリランカ生まれ。テーラワーダ仏教(スリランカ上座仏教)長老。13歳で出家し、スリランカの国立大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、1980年に研究のために来日。1994年に日本テーラワーダ仏教協会を設立し、2001年にゴータミー精舎を開基。現在はゴータミー精舎を拠点に、初期仏教の伝道、ヴィパッサナー瞑想の指導に従事している。おもな著書に『結局は自分のことを何も知らない』『怒らないこと—役立つ初期仏教法話(1)』『ブッダの幸福論』『現代人のための瞑想法』『希望のしくみ』(養老孟司との共著)など。
このインタビューは、Papersky No.25 (2008)に掲載されています。
インタビュー&構成:中島良平 写真:相田晴美
Interview & Text: Ryohei Nakajima Photography: Harumi Aida