トサミズキやミツマタ、キブシ、モクレン。
ぎゅっと体が縮こまる京都の厳しい冬を越えて春の野山に姿を覗かせるのは、黄色い花々。京都にある花屋『みたて』店主の西山隼人さん曰く「春は黄色から始まり、夏になるにつれて青みがかってくる」そう。
自らの生業を「季節をいただき、届けること」と例える『みたて』では、今ある「花」をそのままいける。市場の流通を介さないいけ花の中には、京都の野山から採取された山野草もあれば、近所の方が野花を摘んで持ち寄ってくれることもある。
「すべてでありませんが、市場で出回るものには花であって花ではないものがあります。造花ともちがう、季節感の曖昧なもの。「虚」が感じられるもの。そうではなく、(月の満ち欠けや動植物の変化を知らせる)旧暦で進む本来の自然の流れを汲んで、かたちにしたいんです」
木々が葉を落とし花の影が見えない冬には、山で手に入る枝を束ねて「花束」とする。幾分も暖かくなり芽吹きの音が聞こえる頃には、植物が地表に姿を表す手前の様子、土がすこし盛り上がる姿に「花」を見せる。人間の都合で花を扱い、自然の摂理を曲げることはしない。
「懐石料理を例に考えると、旬のものを盛りのうちに口に運ぶことに意味が生まれていると思います。冬と春のはざまに顔を覗かせるフキノトウの苦味をわざわざ味わうこともそう。ただ美味しさだけを求めたら食べないかもしれませんが、そこで動植物が宿す季節の力みたいなものをいただいている。そういう感覚を大事にしたいですね」
わかりやすい美味しさ、花で言うところの華やかさだけが美しさの基準ではない。たとえば、ぽっと一輪だけ咲いた喜びや、姿がなくても開花の気配を感じる期待に思い馳せることもまた美しさだ。
「かつて、いけられた一輪の花に込められた想いを読み解きあう時代がありました。なぜ花が横を向いているのか、あるいは裏を向いているのか。なぜ葉っぱが折れているのか。見えるものだけではなく、見えないところからいけ手の想いを察する。その、こころでの会話にすごく興味があるんですね」
大きさや華やかさなど、即物的なものの見方に囚われることなく、そこに込められたこころからの祝福を受け取っていただく。『みたて』がいける花には、巡る四季のまごうことなき真が宿っている。