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	<title>papersky &#187; interview</title>
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		<title>Natural Digital Sound｜ノルウェーの風土が生んだ音楽家｜ゲイル・イェンセン</title>
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		<pubDate>Mon, 16 Jan 2012 23:57:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>PAPERSKY</dc:creator>
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		<description><![CDATA[ゲイル・イェンセンは、34日目に登頂に成功した。彼の登山隊で山頂を制覇したのは、彼と、同行したシェルパだけだった。早朝、朝日が東の空を照らしはじめたころ、ゲイルは、世界で6番目に高い標高（8,201m）を誇るチョ・オユーの頂きからはるか彼方のエベレスト山を見つめていた。腰を下ろすと、バックパックを開けてMDとマイクを取り出し、空気の薄い山頂で、風の音、氷雪が砕ける音、そして、自分自身の声を録音した。 5年後の2006年、ゲイル・イェンセン（アーティスト名は「バイオスフィア」）は、『チョ・オユー』と題したアルバムをリリースした。このアルバムには、チョ・オユーの登山中にサンプル音源としてレコーディングしたものと、登山中に彼が書いた日記をもとにしてつくられた12曲が収められている。 「自分の思いどおりに録音ができるようになるまでは時間がかかったね。コンセプトやアイデアに沿って作品をつくりたいから、自分のルールをつくって、音を落としこむ作業が必要なんだ」。 イェンセンは、80年代半ばから音楽活動をしてきた。トリオ編成のユニット、ベル・カントのメンバーであった彼は、自分のスタイルを追求するために、セカンドアルバムをリリース後にユニットを脱退。1991年、バイオスフィア名義での最初のアルバム『Microgravity』を、1994年には『Patashnik』をリリース。3年後にリリースした『Substrata』は、アンビエント・テクノ・ミュージックの傑作アルバムと絶賛された。内面の奥深くに浸透していくような曲調で、メランコリックなサウンドスケープが、リスナーをサウンドの渦に巻きこんでいく。ゲイルはノルウェー北部のトロムソの出身で、彼の音楽は北極圏的な音楽、ミニマル・ミュージック、また、北欧系音楽など、さまざまなジャンル分けがされているが、彼自身は自分の音楽をカテゴライズすることには無理があると感じているようだ。 「同じタイプの音楽を繰り返し発表するのは退屈だから、毎回違った音楽をつくるようにしている。アーティスト名は、アメリカのSF雑誌に載っていたアリゾナのバイオスフィアの記事から拝借したんだけど、バイオスフィアとは、すべての生命体を含む大気圏の一部という意味。それで、この名前をつけたんだ。数年前、ある男が僕のスタジオを訪ねてきて、スタジオにいっさい窓がないことを指摘したんだ。すばらしい景色が見渡せるスタジオだと思ったんだろうけど。で、彼がこう尋ねたんだ、「あなたには外向きの窓は必要なく、内面を見る窓が必要なんですね」って。ある意味、彼の分析は正しいと思った。僕はいつも頭のなかにあるイメージをもとに創作しているし、それこそが僕自身の内なる窓から見えるものなんだ」。 イェンセンの最新アルバムは今年2月半ばに完成、『N-Plants』というタイトルがつけられていた。インスピレーションとなったのは、日本の原子力発電所だった。アルバム完成から数週後の3月11日、東日本大震災が日本列島を襲い、津波と福島第一原子力発電所のメルトダウンが発生。イェンセンは言葉を失ってしまうほどの衝撃を受けた。 「気味の悪い偶然だった。アルバムは3月に発売予定だったけど、どう考えてもこの時期にリリースするべきではないと思った。それで発売日を延期したんだ。この作品は、原子力ではなく、建築にインスパイアされてつくったもの。70年代初頭に起こった刺激的な事象をモチーフにしたアルバムを制作したかったんだけど、ちょうどその時期に日本の原子力発電所のことを知ったんだ。写真を何枚も見ているうちに、この建物にとても興味を惹かれた。美しいブルーの海、白い砂浜、そして椰子の木が立ち並ぶ場所にある発電所が印象的だったんだ」。 イェンセン自身は、80年代にベル・カントのツアーで日本を訪れて以来、来日はしていない。だが、旅とハイキングは彼の生活のなかで大きな比重を占めているようだ。 「ハイキングを始めたのは14歳のころ。標高8,000m以上の山に登ることを夢見ていたんだ。最近、トロムソ島から30分ほどの場所にある山を散策したけど、そこは人がいなくて、前人未到の山の頂まで登ることもできる。だけどこのエリアに発電所を建てようと電力会社が押し寄せているから、将来的にはこのエリアも破壊されてしまうだろうね。渓谷に道路が敷設され、パイプがあちこちに散らばっている状態…。悲しくなるね」。 　 ゲイル・イェンセン　Geir Jenssen 1962年ノルウェー生まれ。北極圏のサウンドスケープを表現するアーティストとして知られるアンビエント・エレクトロニカの音楽家。1994年に『Patashnik』、1997年に『Substrata』をリリースし賞賛された。最新作は2011年に発表した『N-Plants』。現在、ポーランドのクラコフを拠点に活動している。http://www.biosphere.no/ Biosphere: Genkai-1 (official video by Egbert Mittelstädt) from Geir Jenssen / Biosphere on Vimeo. ※この記事は『PAPERSKY No.37』に掲載されています。 Text: Max Alexander Berg]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ゲイル・イェンセンは、34日目に登頂に成功した。彼の登山隊で山頂を制覇したのは、彼と、同行したシェルパだけだった。早朝、朝日が東の空を照らしはじめたころ、ゲイルは、世界で6番目に高い標高（8,201m）を誇るチョ・オユーの頂きからはるか彼方のエベレスト山を見つめていた。腰を下ろすと、バックパックを開けてMDとマイクを取り出し、空気の薄い山頂で、風の音、氷雪が砕ける音、そして、自分自身の声を録音した<span id="more-10762"></span>。</p>
<p>5年後の2006年、ゲイル・イェンセン（アーティスト名は「バイオスフィア」）は、『チョ・オユー』と題したアルバムをリリースした。このアルバムには、チョ・オユーの登山中にサンプル音源としてレコーディングしたものと、登山中に彼が書いた日記をもとにしてつくられた12曲が収められている。</p>
<p>「自分の思いどおりに録音ができるようになるまでは時間がかかったね。コンセプトやアイデアに沿って作品をつくりたいから、自分のルールをつくって、音を落としこむ作業が必要なんだ」。</p>
<p>イェンセンは、80年代半ばから音楽活動をしてきた。トリオ編成のユニット、ベル・カントのメンバーであった彼は、自分のスタイルを追求するために、セカンドアルバムをリリース後にユニットを脱退。1991年、バイオスフィア名義での最初のアルバム『Microgravity』を、1994年には『Patashnik』をリリース。3年後にリリースした『Substrata』は、アンビエント・テクノ・ミュージックの傑作アルバムと絶賛された。内面の奥深くに浸透していくような曲調で、メランコリックなサウンドスケープが、リスナーをサウンドの渦に巻きこんでいく。ゲイルはノルウェー北部のトロムソの出身で、彼の音楽は北極圏的な音楽、ミニマル・ミュージック、また、北欧系音楽など、さまざまなジャンル分けがされているが、彼自身は自分の音楽をカテゴライズすることには無理があると感じているようだ。</p>
<p>「同じタイプの音楽を繰り返し発表するのは退屈だから、毎回違った音楽をつくるようにしている。アーティスト名は、アメリカのSF雑誌に載っていたアリゾナのバイオスフィアの記事から拝借したんだけど、バイオスフィアとは、すべての生命体を含む大気圏の一部という意味。それで、この名前をつけたんだ。数年前、ある男が僕のスタジオを訪ねてきて、スタジオにいっさい窓がないことを指摘したんだ。すばらしい景色が見渡せるスタジオだと思ったんだろうけど。で、彼がこう尋ねたんだ、「あなたには外向きの窓は必要なく、内面を見る窓が必要なんですね」って。ある意味、彼の分析は正しいと思った。僕はいつも頭のなかにあるイメージをもとに創作しているし、それこそが僕自身の内なる窓から見えるものなんだ」。</p>
<p>イェンセンの最新アルバムは今年2月半ばに完成、『N-Plants』というタイトルがつけられていた。インスピレーションとなったのは、日本の原子力発電所だった。アルバム完成から数週後の3月11日、東日本大震災が日本列島を襲い、津波と福島第一原子力発電所のメルトダウンが発生。イェンセンは言葉を失ってしまうほどの衝撃を受けた。</p>
<p>「気味の悪い偶然だった。アルバムは3月に発売予定だったけど、どう考えてもこの時期にリリースするべきではないと思った。それで発売日を延期したんだ。この作品は、原子力ではなく、建築にインスパイアされてつくったもの。70年代初頭に起こった刺激的な事象をモチーフにしたアルバムを制作したかったんだけど、ちょうどその時期に日本の原子力発電所のことを知ったんだ。写真を何枚も見ているうちに、この建物にとても興味を惹かれた。美しいブルーの海、白い砂浜、そして椰子の木が立ち並ぶ場所にある発電所が印象的だったんだ」。</p>
<p>イェンセン自身は、80年代にベル・カントのツアーで日本を訪れて以来、来日はしていない。だが、旅とハイキングは彼の生活のなかで大きな比重を占めているようだ。</p>
<p>「ハイキングを始めたのは14歳のころ。標高8,000m以上の山に登ることを夢見ていたんだ。最近、トロムソ島から30分ほどの場所にある山を散策したけど、そこは人がいなくて、前人未到の山の頂まで登ることもできる。だけどこのエリアに発電所を建てようと電力会社が押し寄せているから、将来的にはこのエリアも破壊されてしまうだろうね。渓谷に道路が敷設され、パイプがあちこちに散らばっている状態…。悲しくなるね」。</p>
<p>　<br />
ゲイル・イェンセン　Geir Jenssen<br />
1962年ノルウェー生まれ。北極圏のサウンドスケープを表現するアーティストとして知られるアンビエント・エレクトロニカの音楽家。1994年に『Patashnik』、1997年に『Substrata』をリリースし賞賛された。最新作は2011年に発表した『N-Plants』。現在、ポーランドのクラコフを拠点に活動している。<a href="http://www.biosphere.no/" target="_blank">http://www.biosphere.no/</a></p>
<p><iframe src="http://player.vimeo.com/video/29667272?title=0&amp;byline=0&amp;portrait=0" width="400" height="225" frameborder="0" webkitAllowFullScreen mozallowfullscreen allowFullScreen></iframe>
<p><a href="http://vimeo.com/29667272">Biosphere: Genkai-1 (official video by Egbert Mittelstädt)</a> from <a href="http://vimeo.com/user2700700">Geir Jenssen / Biosphere</a> on <a href="http://vimeo.com">Vimeo</a>.</p>
<p><em>※この記事は『<a href="http://www.fujisan.co.jp/product/1281680322/b/719542/ap-kneehighmedia" target="_blank">PAPERSKY No.37</a>』に掲載されています。</em><br />
Text: Max Alexander Berg</p>
<p><img src="http://www.papersky.jp/wp-content/uploads/2011/11/interview_02.jpg" alt="" title="interview_02" width="528" height="350" class="alignnone size-full wp-image-10763" /></p>
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		<title>Oslo, August 31st｜記憶をたどり、記憶のなかの街をつくる｜ヨアヒム・トリアー</title>
		<link>http://www.papersky.jp/2012/01/09/oslo-august-31st/</link>
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		<pubDate>Sun, 08 Jan 2012 23:46:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>PAPERSKY</dc:creator>
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		<description><![CDATA[「晩夏のオスロでの最高の思い出は、ヴィグドイで泳いだこと。秘密の場所や飛びこみができる崖がたくさんあってね。オスロの街からトラムやバスに乗って15分ほどの場所にあるんだ。よそから来た人には、信じてもらえないけれど…」。 ノルウェーのもっとも高名な映画監督、ヨアヒム・トリアーは、1980〜90年代、オスロで少年時代を送った。ノルウェーは全員が中産階級で、スケートボードを禁じた世界で最初で最後の国。そんな社会の堅苦しさにうんざりしたトリアーと友人たちは、ヒップホップやパンクといったサブカルチャーに魅了され、警察に見つからないように、森のなかにつくったランプで密輸入品のボードを使い、スケートボードに明け暮れたという。オスロは、ストックホルムやコペンハーゲンほど自由で大陸的ではないが、バランスのとれた都市である。 「ロンドンに7年暮らし、最近オスロに戻ってきたばかりですが、昔よりはるかに国際的な街になりましたね。住民は都市生活者であるという意識をもち、その環境からなにかを創造しようとしています。いいクラブも、活気ある劇場も、音楽シーンもある。オスロは生まれ育った街だから、本当に大事な場所。ある男が人生の軌跡をたどり、いまの自分の姿に思いを馳せる物語を映画化しようと決めたとき、自分がいちばんよく知る街であるオスロが最高の背景になると思いました」。 その映画とは、トリアーが監督し、ノルウェーで今夏、最大のヒット作となった『Oslo, August 31st』である。映画は主役のアンデシュが投身自殺を図ろうとしているところから始まる。アンデシュは30代半ばで、リハビリ施設で治療を受けている薬物依存症患者。結局、ぎりぎりのところで自殺を思いとどまった。自殺し損ねた彼は、リハビリを1日休んで街へ行き、友人たちを訪ねたり、仕事探しをしたりする。私たちはスクリーンのなかで、彼の様子を追う。この映画は、過去に囚われて前に進むことができない若者の苦しみを描いた実存主義的な作品だ。ノルウェーのメディアに大絶賛され、カンヌ映画祭「ある視点」の招待作品にも選ばれた。 「この作品は実存主義的な危機を掘り下げて描くことを目的としていたので、さまざまな生活を送る人々が肩を寄せあって暮らすオスロは、最高の舞台でした。ロンドンやパリで生活する人たちは自分のコミュニティにこもっていますが、オスロでは彼らほど外の世界から距離をとることができません。それがオスロのもっともよい面でもあり、悪い面でもあります。善と悪が並んで存在しているのです」。 このような共存の様子は、トリアーが描いたノルウェーの首都の姿に鮮明に表れている。ぼんやりとしたやわらかい色調の映像は、目に見えるもののすぐ下には荒れ狂う現実が隠れているという印象を残す。それでも、絵描きが作品に命を吹きこむために必要な最後の色を加えるような大胆な仕上げからは、ぬくもりとオプティミズムが染みだしている。 「短編映画をつくっていたときから、記憶とアイデンティティはつねに私の作品に欠かせない要素のひとつでした。私は人格がどのように構成されるのか、その経緯に興味があります。脚本を書くときは人間や性格に強い関心を寄せていますが、私が映画の大ファンだということも関係していると思います。映画という媒体そのものが記憶やアイデンティティを反映すると同時に、なによりも思考プロセスを思いださせる芸術形式です。映画は時代を記録したドキュメンタリーであり、私たちが考えていたことを映しています。『 Oslo, August 31st』製作時にいくつかのシーンを撮影したビョルヴィカ地域では現在、大規模な建設作業が進んでいます。10年後、オスロはまったく違う姿になる。この作品は、昔の街の姿の証にもなることでしょう。 これから、予算もスタッフ数も桁違いの米国の映画プロジェクトにとりかかる予定です。それなのに、最近はずっとオスロのことを考えています。まだあの街を描ききれていません。たとえば、私がパリについての映画をつくるのは難しいでしょう。パリを描いたすばらしい作品はいくらでもあるから、どこから手をつけていいかわからないと思う。一方、オスロには大きな可能性があります。オスロについて語るべき物語は、まだいくらでもある。そう確信しています」。 　 ヨアヒム・トリアー　Joachim Trier 1974年ノルウェー生まれ。時間や記憶、アイデンティティを情緒的に表現する映画監督として知られる。脚本と製作を手がけ、2006年に公開した短編映画シリーズ『Repride』に続き、2011年に『Oslo, 31 August』を発表。カンヌ映画祭「ある視点」の招待作品にも選ばれ話題となった。オスロ在住。 ※この記事は『PAPERSKY No.37』に掲載されています。 Text: Max Alexander Berg]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「晩夏のオスロでの最高の思い出は、ヴィグドイで泳いだこと。秘密の場所や飛びこみができる崖がたくさんあってね。オスロの街からトラムやバスに乗って15分ほどの場所にあるんだ。よそから来た人には、信じてもらえないけれど…」。<br />
ノルウェーのもっとも高名な映画監督、ヨアヒム・トリアーは、1980〜90年代、オスロで少年時代を送った。ノルウェーは全員が中産階級で、スケートボードを禁じた世界で最初で最後の国。そんな社会の堅苦しさにうんざりしたトリアーと友人たちは、ヒップホップやパンクといったサブカルチャーに魅了され、警察に見つからないように、森のなかにつくったランプで密輸入品のボードを使い、スケートボードに明け暮れたという。オスロは、ストックホルムやコペンハーゲンほど自由で大陸的ではないが、バランスのとれた都市である<span id="more-10759"></span>。<br />
「ロンドンに7年暮らし、最近オスロに戻ってきたばかりですが、昔よりはるかに国際的な街になりましたね。住民は都市生活者であるという意識をもち、その環境からなにかを創造しようとしています。いいクラブも、活気ある劇場も、音楽シーンもある。オスロは生まれ育った街だから、本当に大事な場所。ある男が人生の軌跡をたどり、いまの自分の姿に思いを馳せる物語を映画化しようと決めたとき、自分がいちばんよく知る街であるオスロが最高の背景になると思いました」。</p>
<p>その映画とは、トリアーが監督し、ノルウェーで今夏、最大のヒット作となった『Oslo, August 31st』である。映画は主役のアンデシュが投身自殺を図ろうとしているところから始まる。アンデシュは30代半ばで、リハビリ施設で治療を受けている薬物依存症患者。結局、ぎりぎりのところで自殺を思いとどまった。自殺し損ねた彼は、リハビリを1日休んで街へ行き、友人たちを訪ねたり、仕事探しをしたりする。私たちはスクリーンのなかで、彼の様子を追う。この映画は、過去に囚われて前に進むことができない若者の苦しみを描いた実存主義的な作品だ。ノルウェーのメディアに大絶賛され、カンヌ映画祭「ある視点」の招待作品にも選ばれた。</p>
<p>「この作品は実存主義的な危機を掘り下げて描くことを目的としていたので、さまざまな生活を送る人々が肩を寄せあって暮らすオスロは、最高の舞台でした。ロンドンやパリで生活する人たちは自分のコミュニティにこもっていますが、オスロでは彼らほど外の世界から距離をとることができません。それがオスロのもっともよい面でもあり、悪い面でもあります。善と悪が並んで存在しているのです」。</p>
<p>このような共存の様子は、トリアーが描いたノルウェーの首都の姿に鮮明に表れている。ぼんやりとしたやわらかい色調の映像は、目に見えるもののすぐ下には荒れ狂う現実が隠れているという印象を残す。それでも、絵描きが作品に命を吹きこむために必要な最後の色を加えるような大胆な仕上げからは、ぬくもりとオプティミズムが染みだしている。</p>
<p>「短編映画をつくっていたときから、記憶とアイデンティティはつねに私の作品に欠かせない要素のひとつでした。私は人格がどのように構成されるのか、その経緯に興味があります。脚本を書くときは人間や性格に強い関心を寄せていますが、私が映画の大ファンだということも関係していると思います。映画という媒体そのものが記憶やアイデンティティを反映すると同時に、なによりも思考プロセスを思いださせる芸術形式です。映画は時代を記録したドキュメンタリーであり、私たちが考えていたことを映しています。『 Oslo, August 31st』製作時にいくつかのシーンを撮影したビョルヴィカ地域では現在、大規模な建設作業が進んでいます。10年後、オスロはまったく違う姿になる。この作品は、昔の街の姿の証にもなることでしょう。</p>
<p>これから、予算もスタッフ数も桁違いの米国の映画プロジェクトにとりかかる予定です。それなのに、最近はずっとオスロのことを考えています。まだあの街を描ききれていません。たとえば、私がパリについての映画をつくるのは難しいでしょう。パリを描いたすばらしい作品はいくらでもあるから、どこから手をつけていいかわからないと思う。一方、オスロには大きな可能性があります。オスロについて語るべき物語は、まだいくらでもある。そう確信しています」。</p>
<p>　<br />
ヨアヒム・トリアー　Joachim Trier<br />
1974年ノルウェー生まれ。時間や記憶、アイデンティティを情緒的に表現する映画監督として知られる。脚本と製作を手がけ、2006年に公開した短編映画シリーズ『Repride』に続き、2011年に『Oslo, 31 August』を発表。カンヌ映画祭「ある視点」の招待作品にも選ばれ話題となった。オスロ在住。</p>
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<p><em>※この記事は『<a href="http://www.fujisan.co.jp/product/1281680322/b/719542/ap-kneehighmedia" target="_blank">PAPERSKY No.37</a>』に掲載されています。</em><br />
Text: Max Alexander Berg</p>
<p><img src="http://www.papersky.jp/wp-content/uploads/2011/11/interview_01.jpg" alt="" title="interview_01" width="528" height="350" class="alignnone size-full wp-image-10760" /></p>
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		<title>アフリカ・伝統とモダニティからつくりだされた「リミックス」｜シモン・ンジャミ</title>
		<link>http://www.papersky.jp/2011/11/25/simon-njami/</link>
		<comments>http://www.papersky.jp/2011/11/25/simon-njami/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 25 Nov 2011 01:19:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>PAPERSKY</dc:creator>
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		<description><![CDATA[アフリカは日本に似ている。どちらも国際的な注目を浴びており、しばしば、しかも完全に、外部の世界から誤解されている。「アフリカ・リミックス」は、アフリカ大陸から発信される現代アフリカン・アートを紹介する過去最大の展覧会だ。これまでドイツ、フランス、イギリスの観客たちに、アフリカの「深遠なるクリエイティヴィティ」を覗き見ることができる稀少な窓を提供してきた。アフリカ人以外の人々やいわゆるアフリ力についての専門家たちによって嫌というほど報じられてきたある場所の新しい姿と、アフリカ人自身から生み出された、この大陸と密接に結びついた肖像を僕たちに見せてくれるのだ。この春（2006年インタビュー当時）、「アフリカ・リミックス」が日本にやってくる。この展覧会のキュレーターであるシモン・ンジャミ氏が何度も指摘するように、この大陸のおおいなる多様性を目の当たりにするチャンスを、日本の観客に提供してくれることだろう。アフリカは夢のようにすばらしい地なのだ。 　 ひとつの国ではないアフリカ ── このたび東京・森美術館で開催される「アフリカ・リミックス」展は、これまでドイツやパリ、最近ではロンドンの「へイワード・ギャラリー」で開催されてきました。この展覧会についての報道のほとんどは好意的なものでしたが、あるイギリス人批評家がロンドンの新聞紙上でこんなことを書いています。「アフリカがこの種の展覧会に抵抗を覚えるのは、生と死というものが芸術よりもリアルだということを果てしなく、そして激しく思い起こさせるからだ」。これについてはどう思いますか? シモン・ンジャミ(以下S) ：西洋の倣慢さを反映したコメントですね。この人はアフリカ人を代弁して語っているのでしょうか。アフリカにとってなにがいいかを知っているのでしょうか。自分は世界銀行や国際通貨基金よりもマシだと？ まるで芸術はアフリカの一部じゃない、アフリカ人は芸術なんでできないと言っているように聞こえます。飢えている人は映画を観にいくべきじゃない、そんな資格はないというのでしょうか。まったくばかげています。でもやはりこれが、世間の人々がアフリカに対して抱いている多くの先入観のひとつなのでしょう。展覧会で私がいいなと思ったところは、観にきた人たちが心をオープンにし、自分自身を表現したくなるよう気になるというところなのです。 ── 現代美術がすでに確立している日本で、アフリカン・アートの展覧会をする必要性があるのでしょうか？ まずは、自分たちがアフリカに行ってみるべきなのではないかと思います。 S：そうですね。先ほどのイギリス人批評家の話に戻りますが、もし彼が実際アフリカに行ったことがあるなら、彼はたぶんもっとなにか違うことを書いたでしょう。キュレーターである私にしてみれば、アフリカだろうとほかの場所だろうと、アーティストの仕事場に行って、その人がどこでどんなふうに暮らしているかを見たいと思います。というのも、こうしたところからしか、その人の作品に関する貴重な情報は得られないのですから。誰かを個人的に知るということは、その人の作品に入りこむための鍵を手に入れるということです。だからアフリカン・アートを見ている人々は多くの場合、自分自身の空想の世界を見ているにすぎないのです。もしその大陸や、そこに住む人々についてなんの手がかりもないとしたら、いったい、なにを見ることができるでしょうか？ アフリカはひとつの国ではありません。だから、南アフリカやセネガルと同じようにはエジプトの問題に取り組むことはできないし、エジプト圏内でさえ「エジプトの芸術」というものを一般化することはできません。エジプトのアーティストたちは、ほかのあらゆるところと同じように、自己表現のしかたがそれぞれまったく異なる個々の人々です。だからそうした国や人々に関する情報がなければ、想像力を働かせるしかない。誰もがアフリカについてなんらかの考えをもっています。幻想のようなものもあれば、現実に近い考えもある。でももちろん、そこにはいつもなにかが欠けているのです。 ── アフリカの問題点について世界各国とよりよくコミュニケートするために、アフリカ人にはなにができると思いますか? S：アフリカに関する問題、それはじつにさまざまな理由から、アフリカがいまだに独自の言語を確立することができないということです。つまり、「アフリカ」というものについてなにがいわれようと、それはアフリカの外部でいわれていることだということです。だから、実際のアフリカ人の声は誰も聞いていないし、伝わっていない。トレーニングを受けたキュレーターがさまざまな問題に取り組み、定期的に展覧会を開くことができるような現代美術館がもっとアフリカにできれば、このようなギャップはなくなるはずです。図書館に行ってアフリカのコーナを見ればわかりますが、99%がアフリカ以外の、いわゆる専門家と呼ばれる人たちが書いた本であり、作品であったりします。そしていまのところ、大々的な展覧会のためのマーケットはアフリカ以外のところにあるのです。だから私は外国で展覧会を開いているのです。 ── こうしたアフリカ人アーティストたちの作品を、たくさんの人々に紹介したいと考えていますか、それともアフリカに関する「教育」をするというテーマもまた重要なモチベーションであり、ゴールなのでしょうか？ S：もちろんです。だって争いのあるところでしか闘うことはできませんからね。「アフリカリミックス」で私が出会うアフリカについての考えかたは、ヨーロッパや西洋世界、また日本で見出されるものです。もしアフリカでなにかをするのだったら、私はたぶんなにか違うことをやっていたでしょう。でも自分のルーツがなんであろうと関係なく、私はパリの出身で、現にそこに住んでいる。パリ市内よりも市外にいることのほうが多いけれど、それでもパリは私が住んでいる世界であり、私が対決している世界なのです。アフリカ人だって同じように、アフリカについてたくさんの先入観をもっています。この展覧会がヨハネスブルクで開催されるときには、きっといろんな問題が起こるでしょう。でも、そこでどんなディスカッションが繰り広げられるかを楽しみにしているのです。彼らだって、ほかのみんなと同じように、アフリカンアートとはなにかということについて自分なりの定義があるはずですから。私の定義は私にもわかりません。「アフリカ・リミックス」のアーティストはみな、アフリカとなんらかのつながりがありますが、私もまた、「アフリカ人のアイデンティティ」はひとつじゃないということを示したかったし、このコンセプトは、単なるメタファーであり、夢にすぎないのです。 ── 「アフリカ」というレッテルは複雑で理解するのが難しいということですか？ S：そうですね、たとえばララ・バラディというアーティストはレバノン出身でカイロに住んでいて、この展覧会にはエジプト人アーテイストとして参加しています。イングリッド・ムワンギの場合、母親はドイツ人で父親はケニア人、彼女自身はヨーロッパで育ちました。ゾーリカ・ブアブデラはモスクワ生まれで両親はアルジェリア人です。こんなふうに、アフリカ人と一言に言っても、じつはたくさんのタイプがいるのです。「アフリカ・リミックス」の目的のひとつは、「アフリカ」を知ることはできないということを人々に知らしめることなのです。多くの人々に自分自身の考えをもったうえで「アフリカ・リミックス」を観にきてもらい、そしてなんの考えももたずに会場を後にしてほしいのです。ある人は、アフリカを復興の地と見るかもしれない。またある人たちはひとつの作品の前に立って、「ああこれだ、これが私のアフリカだ」と言うでしょう。そして別の写真を見たりビデオを見たりすると「これもアフリカなのか？」と疑問を抱くかもしれない。私が望むのは、この大陸はなんて幅広いんだろう、そしてそこに住む人々はひとりひとり、なんて違うんだろうということを、みんなに想像してもらいたいということです。 アフリカ人間士で互いを発見しあうこと ── 「アフリカ連合」や、長いこと流行していた「汎アフリカ主義」についてはどうですか？ その多様性にもかかわらず、アフリカをひとつの独立体として統一するような、地理的条件を超えたなにかが確かにあるのでしょうか？ S：もちろんです。今回の展覧会は、ひとつの思想としてのアフリカを提示するものです。思想がなければ夢も存在しないはずですから。「アフリカ連合」についてですが、これはまず経済の問題に関わってきます。昔、アフリカになにか中心となるものをつくろうといういくつかの団体と一緒にやっていたプロジェクトがあるのですが、私たちは、アフリカのすべての国に美術館を建設するのではなく、すべての地域に美術館を建てたらどうかと考えました。そうすれば、東アフリカに大きな現代美術館をひとつ、西アフリカや中央アフリカにもひとつずつ建てられる。資金が限られていたので、リソースをひとつにまとめ、アフリカ大陸内だけの移動で済ませたかった。数年前に発見したのですが、私は職業上、おそらくこの大陸に住むほとんどのアフリカ人よりもアフリカについて少しだけ詳しくなれるだろうと思いました。というのも、アフリカ大陸内を移動するのはそれほど簡単なことではないし、旅費も安くはないからです。アフリカ大陸のいくつの国に行ったことがあるかとアフリカ人に聞けば、たとえその人が大の旅行好きだったとしても、政治家でもないかぎりせいぜい5カ国だと答えるでしょう。つまり、南アフリカに住む人々は北アフリカや東アフリカのことをそんなに知らないし、逆もまたしかりということです。私が「Revue Noir」(アフリカの現代美術を専門とする雑誌)を出版していたころ、その成果としてあったのは、アフリカ人がアフリカ人同士で互いを発見しあうようになったということでした。アーティストならこう言うかもしれません。「こんなことをしているカメルーン人がいるなんて知らなかった」とか、「エチオピアではこんなことをしているなんて知らなかった」 とか。「アフリカ・リミックス」でも同じことなのです。この展覧会によって、アーテイストはお互いを発見しあい、それまで知らなかった同胞愛のようなものを見出すことができる。私がいつも強調しているのは、アフリカについて話すときは地図が必要だということです。なぜかといえば、世界の人々がアフリカに対して抱いている数多くの先入観のひとつに、アフリカは暗黒の地だというものがあります。でもアフリカは、サハラ砂漠の南半分のような暗さだけをもった大陸ではないのです。北部にはチュニジアやアルジェリア、リビアやモロッコ、エジプトなどがあって、そうした国々のすべてがアフリカを形成しているのです。ところがほとんどいつの時代も、人は北アフリカを別の大陸の一部だと考える。今回の展覧会は、大陸全土からアフリカ人を寄せ集めることで、オーディエンスだけではなくアーティスト自身に対しても、アフリカとはなにかという可能性のヴィジョンを与えてくれるのです。 ── なぜ「ミックス(mix)」ではなく、「リミックス(Remix)」としたのですか？ S：それは私たちがいま、リミックスの時代に生きているからです。人はしばしば、おおいなるロマンティシ¨ズムを抱きながら、人々が真正であるような時代に憧れます。でも“真正”な時代など、過去に一度としてなかった。アフリカに関するかぎり、ヨーロッパ人がやってくるよりもずっと前に、すでに大きな動きがありました。サハラ砂漠ハイウェイになるといわれていました。それに、たとえばイスラムは真正なアフリカ文化ではなく、輸入されたものにすぎません。ヨーロッパが侵入してきたのは、その後のことです。そしてこんにち、アンゴラとモザンピークではポルトガル語が、ナイジェリアと南アフリカ共和国では英語が公用語となっています。マリとセネガルではフランス語が話されています。これが私の言う「リミックス」です。「キッズ」たち(私はこの展覧会で彼らを「キッズ」と呼んでいます)は、こうしたさまざまな動きのすべてから生まれたのです。真正であるということは固定化以外のなにものでもなく、アフリカは伝統とモダニティからつくり出された「リミックス」以外のなにものでもありません。自分がもっているすべてのものを駆使して、そこからなにか新しいものをつくり出すということです。加えて「リミックス」ということでアフリカ特有のものに、植民地時代があります。それはアフリカ大陸共通の体験です。なぜなら北から南まで、アフリカはヨーロッパの権力の道具であり、権威の標章でありつづけてきましたから。 　 芸術とは人生そのもの ── かつてあなたは、現代のアフリカ社会の核には「深遠なクリエイティヴィティ」があると書いていましたが、それは具体的にどういう意味ですか？ S：私が思うに、同時代性というのは、西洋世界を除くあらゆるところにあります。ラテン・アメリカにも、アフリカにも、そしておそらくアジアのいくつかの場所にも。ところが西洋の世界は旧世界です。それに同時代性というのは、葛藤や混成や脱構築や夢といったものと関係があると思うのです。そのよい例がカイロだと思いますが、同じようなことがアフリカのどの都市にもいえるのではないでしょうか。カイロという街は、いつ行ってもなにかが違うのです。一方でもし私が200年後にパリに戻ってきたとしても、迷子になることはないでしょう。私が言いたいのは、建物は建て替えることができるけれど、通りやモニュメントはずっとそこにあり、永遠に変わらないということです。 アフリカはつねに進化しています。人々は自分の人生に忙しく、過去を建て直すのに忙しい。現在に生きながら未来を構築しているのです。こうしたことが、同時代性のおもな特徴だと思います。アフリカ人アーティストについて私がいつも言っているのは、彼らだけに限ったことではありませんが、人生から逃れることができないということです。つねに人生、つまり日常生活というのものに囲まれ、彼らはそうした生活に満たされているのです。その先の先の、そのまた先のことに疑問などもたない。アフリカにはこうした考えかたがあり、それが同時代性というものと深く結びついているのです。 いつも言っていることですが、私は自分が世界一扱いにくい男だと思っています。ルールなどまったく気にしません。でも、たとえば一度も父の家でタバコを吸ったことはありません。父親の家でタバコを吸おうとしたとき、人は自分にいろいろなことを問いかけるはずです。そうした問いかけのすべてが、のちにクリエイティヴィティを養っていくのです。だからこそ私は、未来はアフリカにあり、西洋ではないどこかほかの地域にあると思うのです。そのようなところでは、芸術というものが空の容器でも、まがいものの思想でも斬新さでもなく、人生そのものなのです。 　 &#8230; <a href="http://www.papersky.jp/2011/11/25/simon-njami/"><br />続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>アフリカは日本に似ている。どちらも国際的な注目を浴びており、しばしば、しかも完全に、外部の世界から誤解されている。「アフリカ・リミックス」は、アフリカ大陸から発信される現代アフリカン・アートを紹介する過去最大の展覧会だ。これまでドイツ、フランス、イギリスの観客たちに、アフリカの「深遠なるクリエイティヴィティ」を覗き見ることができる稀少な窓を提供してきた。アフリカ人以外の人々やいわゆるアフリ力についての専門家たちによって嫌というほど報じられてきたある場所の新しい姿と、アフリカ人自身から生み出された、この大陸と密接に結びついた肖像を僕たちに見せてくれるのだ<span id="more-9831"></span>。この春（2006年インタビュー当時）、「アフリカ・リミックス」が日本にやってくる。この展覧会のキュレーターであるシモン・ンジャミ氏が何度も指摘するように、この大陸のおおいなる多様性を目の当たりにするチャンスを、日本の観客に提供してくれることだろう。アフリカは夢のようにすばらしい地なのだ。</p>
<p>　<br />
<strong>ひとつの国ではないアフリカ</strong></p>
<p>── このたび東京・森美術館で開催される「アフリカ・リミックス」展は、これまでドイツやパリ、最近ではロンドンの「へイワード・ギャラリー」で開催されてきました。この展覧会についての報道のほとんどは好意的なものでしたが、あるイギリス人批評家がロンドンの新聞紙上でこんなことを書いています。「アフリカがこの種の展覧会に抵抗を覚えるのは、生と死というものが芸術よりもリアルだということを果てしなく、そして激しく思い起こさせるからだ」。これについてはどう思いますか?<br />
シモン・ンジャミ(以下S) ：西洋の倣慢さを反映したコメントですね。この人はアフリカ人を代弁して語っているのでしょうか。アフリカにとってなにがいいかを知っているのでしょうか。自分は世界銀行や国際通貨基金よりもマシだと？ まるで芸術はアフリカの一部じゃない、アフリカ人は芸術なんでできないと言っているように聞こえます。飢えている人は映画を観にいくべきじゃない、そんな資格はないというのでしょうか。まったくばかげています。でもやはりこれが、世間の人々がアフリカに対して抱いている多くの先入観のひとつなのでしょう。展覧会で私がいいなと思ったところは、観にきた人たちが心をオープンにし、自分自身を表現したくなるよう気になるというところなのです。</p>
<p>── 現代美術がすでに確立している日本で、アフリカン・アートの展覧会をする必要性があるのでしょうか？ まずは、自分たちがアフリカに行ってみるべきなのではないかと思います。<br />
S：そうですね。先ほどのイギリス人批評家の話に戻りますが、もし彼が実際アフリカに行ったことがあるなら、彼はたぶんもっとなにか違うことを書いたでしょう。キュレーターである私にしてみれば、アフリカだろうとほかの場所だろうと、アーティストの仕事場に行って、その人がどこでどんなふうに暮らしているかを見たいと思います。というのも、こうしたところからしか、その人の作品に関する貴重な情報は得られないのですから。誰かを個人的に知るということは、その人の作品に入りこむための鍵を手に入れるということです。だからアフリカン・アートを見ている人々は多くの場合、自分自身の空想の世界を見ているにすぎないのです。もしその大陸や、そこに住む人々についてなんの手がかりもないとしたら、いったい、なにを見ることができるでしょうか？ アフリカはひとつの国ではありません。だから、南アフリカやセネガルと同じようにはエジプトの問題に取り組むことはできないし、エジプト圏内でさえ「エジプトの芸術」というものを一般化することはできません。エジプトのアーティストたちは、ほかのあらゆるところと同じように、自己表現のしかたがそれぞれまったく異なる個々の人々です。だからそうした国や人々に関する情報がなければ、想像力を働かせるしかない。誰もがアフリカについてなんらかの考えをもっています。幻想のようなものもあれば、現実に近い考えもある。でももちろん、そこにはいつもなにかが欠けているのです。</p>
<p>── アフリカの問題点について世界各国とよりよくコミュニケートするために、アフリカ人にはなにができると思いますか?<br />
S：アフリカに関する問題、それはじつにさまざまな理由から、アフリカがいまだに独自の言語を確立することができないということです。つまり、「アフリカ」というものについてなにがいわれようと、それはアフリカの外部でいわれていることだということです。だから、実際のアフリカ人の声は誰も聞いていないし、伝わっていない。トレーニングを受けたキュレーターがさまざまな問題に取り組み、定期的に展覧会を開くことができるような現代美術館がもっとアフリカにできれば、このようなギャップはなくなるはずです。図書館に行ってアフリカのコーナを見ればわかりますが、99%がアフリカ以外の、いわゆる専門家と呼ばれる人たちが書いた本であり、作品であったりします。そしていまのところ、大々的な展覧会のためのマーケットはアフリカ以外のところにあるのです。だから私は外国で展覧会を開いているのです。</p>
<p>── こうしたアフリカ人アーティストたちの作品を、たくさんの人々に紹介したいと考えていますか、それともアフリカに関する「教育」をするというテーマもまた重要なモチベーションであり、ゴールなのでしょうか？<br />
S：もちろんです。だって争いのあるところでしか闘うことはできませんからね。「アフリカリミックス」で私が出会うアフリカについての考えかたは、ヨーロッパや西洋世界、また日本で見出されるものです。もしアフリカでなにかをするのだったら、私はたぶんなにか違うことをやっていたでしょう。でも自分のルーツがなんであろうと関係なく、私はパリの出身で、現にそこに住んでいる。パリ市内よりも市外にいることのほうが多いけれど、それでもパリは私が住んでいる世界であり、私が対決している世界なのです。アフリカ人だって同じように、アフリカについてたくさんの先入観をもっています。この展覧会がヨハネスブルクで開催されるときには、きっといろんな問題が起こるでしょう。でも、そこでどんなディスカッションが繰り広げられるかを楽しみにしているのです。彼らだって、ほかのみんなと同じように、アフリカンアートとはなにかということについて自分なりの定義があるはずですから。私の定義は私にもわかりません。「アフリカ・リミックス」のアーティストはみな、アフリカとなんらかのつながりがありますが、私もまた、「アフリカ人のアイデンティティ」はひとつじゃないということを示したかったし、このコンセプトは、単なるメタファーであり、夢にすぎないのです。</p>
<p>── 「アフリカ」というレッテルは複雑で理解するのが難しいということですか？<br />
S：そうですね、たとえばララ・バラディというアーティストはレバノン出身でカイロに住んでいて、この展覧会にはエジプト人アーテイストとして参加しています。イングリッド・ムワンギの場合、母親はドイツ人で父親はケニア人、彼女自身はヨーロッパで育ちました。ゾーリカ・ブアブデラはモスクワ生まれで両親はアルジェリア人です。こんなふうに、アフリカ人と一言に言っても、じつはたくさんのタイプがいるのです。「アフリカ・リミックス」の目的のひとつは、「アフリカ」を知ることはできないということを人々に知らしめることなのです。多くの人々に自分自身の考えをもったうえで「アフリカ・リミックス」を観にきてもらい、そしてなんの考えももたずに会場を後にしてほしいのです。ある人は、アフリカを復興の地と見るかもしれない。またある人たちはひとつの作品の前に立って、「ああこれだ、これが私のアフリカだ」と言うでしょう。そして別の写真を見たりビデオを見たりすると「これもアフリカなのか？」と疑問を抱くかもしれない。私が望むのは、この大陸はなんて幅広いんだろう、そしてそこに住む人々はひとりひとり、なんて違うんだろうということを、みんなに想像してもらいたいということです。</p>
<p><strong>アフリカ人間士で互いを発見しあうこと</strong></p>
<p>── 「アフリカ連合」や、長いこと流行していた「汎アフリカ主義」についてはどうですか？ その多様性にもかかわらず、アフリカをひとつの独立体として統一するような、地理的条件を超えたなにかが確かにあるのでしょうか？<br />
S：もちろんです。今回の展覧会は、ひとつの思想としてのアフリカを提示するものです。思想がなければ夢も存在しないはずですから。「アフリカ連合」についてですが、これはまず経済の問題に関わってきます。昔、アフリカになにか中心となるものをつくろうといういくつかの団体と一緒にやっていたプロジェクトがあるのですが、私たちは、アフリカのすべての国に美術館を建設するのではなく、すべての地域に美術館を建てたらどうかと考えました。そうすれば、東アフリカに大きな現代美術館をひとつ、西アフリカや中央アフリカにもひとつずつ建てられる。資金が限られていたので、リソースをひとつにまとめ、アフリカ大陸内だけの移動で済ませたかった。数年前に発見したのですが、私は職業上、おそらくこの大陸に住むほとんどのアフリカ人よりもアフリカについて少しだけ詳しくなれるだろうと思いました。というのも、アフリカ大陸内を移動するのはそれほど簡単なことではないし、旅費も安くはないからです。アフリカ大陸のいくつの国に行ったことがあるかとアフリカ人に聞けば、たとえその人が大の旅行好きだったとしても、政治家でもないかぎりせいぜい5カ国だと答えるでしょう。つまり、南アフリカに住む人々は北アフリカや東アフリカのことをそんなに知らないし、逆もまたしかりということです。私が「Revue Noir」(アフリカの現代美術を専門とする雑誌)を出版していたころ、その成果としてあったのは、アフリカ人がアフリカ人同士で互いを発見しあうようになったということでした。アーティストならこう言うかもしれません。「こんなことをしているカメルーン人がいるなんて知らなかった」とか、「エチオピアではこんなことをしているなんて知らなかった」 とか。「アフリカ・リミックス」でも同じことなのです。この展覧会によって、アーテイストはお互いを発見しあい、それまで知らなかった同胞愛のようなものを見出すことができる。私がいつも強調しているのは、アフリカについて話すときは地図が必要だということです。なぜかといえば、世界の人々がアフリカに対して抱いている数多くの先入観のひとつに、アフリカは暗黒の地だというものがあります。でもアフリカは、サハラ砂漠の南半分のような暗さだけをもった大陸ではないのです。北部にはチュニジアやアルジェリア、リビアやモロッコ、エジプトなどがあって、そうした国々のすべてがアフリカを形成しているのです。ところがほとんどいつの時代も、人は北アフリカを別の大陸の一部だと考える。今回の展覧会は、大陸全土からアフリカ人を寄せ集めることで、オーディエンスだけではなくアーティスト自身に対しても、アフリカとはなにかという可能性のヴィジョンを与えてくれるのです。</p>
<p>── なぜ「ミックス(mix)」ではなく、「リミックス(Remix)」としたのですか？<br />
S：それは私たちがいま、リミックスの時代に生きているからです。人はしばしば、おおいなるロマンティシ¨ズムを抱きながら、人々が真正であるような時代に憧れます。でも“真正”な時代など、過去に一度としてなかった。アフリカに関するかぎり、ヨーロッパ人がやってくるよりもずっと前に、すでに大きな動きがありました。サハラ砂漠ハイウェイになるといわれていました。それに、たとえばイスラムは真正なアフリカ文化ではなく、輸入されたものにすぎません。ヨーロッパが侵入してきたのは、その後のことです。そしてこんにち、アンゴラとモザンピークではポルトガル語が、ナイジェリアと南アフリカ共和国では英語が公用語となっています。マリとセネガルではフランス語が話されています。これが私の言う「リミックス」です。「キッズ」たち(私はこの展覧会で彼らを「キッズ」と呼んでいます)は、こうしたさまざまな動きのすべてから生まれたのです。真正であるということは固定化以外のなにものでもなく、アフリカは伝統とモダニティからつくり出された「リミックス」以外のなにものでもありません。自分がもっているすべてのものを駆使して、そこからなにか新しいものをつくり出すということです。加えて「リミックス」ということでアフリカ特有のものに、植民地時代があります。それはアフリカ大陸共通の体験です。なぜなら北から南まで、アフリカはヨーロッパの権力の道具であり、権威の標章でありつづけてきましたから。</p>
<p>　<br />
<strong>芸術とは人生そのもの</strong></p>
<p>── かつてあなたは、現代のアフリカ社会の核には「深遠なクリエイティヴィティ」があると書いていましたが、それは具体的にどういう意味ですか？<br />
S：私が思うに、同時代性というのは、西洋世界を除くあらゆるところにあります。ラテン・アメリカにも、アフリカにも、そしておそらくアジアのいくつかの場所にも。ところが西洋の世界は旧世界です。それに同時代性というのは、葛藤や混成や脱構築や夢といったものと関係があると思うのです。そのよい例がカイロだと思いますが、同じようなことがアフリカのどの都市にもいえるのではないでしょうか。カイロという街は、いつ行ってもなにかが違うのです。一方でもし私が200年後にパリに戻ってきたとしても、迷子になることはないでしょう。私が言いたいのは、建物は建て替えることができるけれど、通りやモニュメントはずっとそこにあり、永遠に変わらないということです。</p>
<p>アフリカはつねに進化しています。人々は自分の人生に忙しく、過去を建て直すのに忙しい。現在に生きながら未来を構築しているのです。こうしたことが、同時代性のおもな特徴だと思います。アフリカ人アーティストについて私がいつも言っているのは、彼らだけに限ったことではありませんが、人生から逃れることができないということです。つねに人生、つまり日常生活というのものに囲まれ、彼らはそうした生活に満たされているのです。その先の先の、そのまた先のことに疑問などもたない。アフリカにはこうした考えかたがあり、それが同時代性というものと深く結びついているのです。</p>
<p>いつも言っていることですが、私は自分が世界一扱いにくい男だと思っています。ルールなどまったく気にしません。でも、たとえば一度も父の家でタバコを吸ったことはありません。父親の家でタバコを吸おうとしたとき、人は自分にいろいろなことを問いかけるはずです。そうした問いかけのすべてが、のちにクリエイティヴィティを養っていくのです。だからこそ私は、未来はアフリカにあり、西洋ではないどこかほかの地域にあると思うのです。そのようなところでは、芸術というものが空の容器でも、まがいものの思想でも斬新さでもなく、人生そのものなのです。</p>
<p>　<br />
シモノンジャミ　Simon Njami<br />
キュレーター<br />
1962年スイス生まれ、ヨーロッパ育ち。キュレーターであり、小説家。フランス外務省フランス芸術文化活動協会ヴィジュアルアーツ部門コンサルタント、サンディエゴ大学客員教授、「Revue Noir」編集長などを務める。約20年以上にわたり、アフリカ文化をテーマにした著作物の執筆や展覧会のキュリエーションを数多く手がけている。</p>
<p>※「アフリカ・リミックス展」は、2006年（5月27日〜8月31日）に東京・森美術館にて開催された。<a href="http://www.mori.art.museum/contents/africa/about/index.html" target="_blank">http://www.mori.art.museum/contents/africa/about/index.html</a></p>
<p>　<br />
このインタビューは<a href="http://www.fujisan.co.jp/Product/1281680322/b/100274/ap-kneehighmedia" target="_blank">『PAPERSKY』No.17</a> (2006)に掲載されたものです。<br />
インタビュー&#038;構成：ジョセフ・バデキ・バルコ<br />
Interview &#038; Text: Joseph Badtke-Berkow</p>
<p><img src="http://www.papersky.jp/wp-content/uploads/2011/10/africa.jpg" alt="" title="africa" width="528" height="350" class="alignnone size-full wp-image-9835" /></p>
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		<title>いつまでも持ちつづける旅心｜ボール・スミス インタビュー</title>
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		<pubDate>Wed, 19 Oct 2011 00:34:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>PAPERSKY</dc:creator>
				<category><![CDATA[europe]]></category>
		<category><![CDATA[jp]]></category>
		<category><![CDATA[fashion]]></category>
		<category><![CDATA[interview]]></category>

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		<description><![CDATA[ファッションデザイナ一、ポール・スミス。彼はおおらかで誠実、そしてちょっと風変わりなハードワーカーだ。すみずみまで手を抜かないその仕事ぶりは、1週間単位で世界中を飛びまわるという超多忙なスケジュールにも表れている。そうした生活のなかでも、彼は旅と人生を最大限に楽しんでいるように見える。ハードなビジネススタイルに見合うワールドトラベラーとしてのコツや心構えとは、いったいどういうものなのだろう。その秘訣をほんの少し、教えてもらえたら。東京・青山のトータルコンセプトショップ「ポール・スミス・スペースJ オープニングのために来日したポールに、旅の話を聞いた。 <a href="http://www.papersky.jp/2011/10/19/paul-smith/"><br />続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ファッションデザイナ一、ポール・スミス。彼はおおらかで誠実、そしてちょっと風変わりなハードワーカーだ。すみずみまで手を抜かないその仕事ぶりは、1週間単位で世界中を飛びまわるという超多忙なスケジュールにも表れている。そうした生活のなかでも、彼は旅と人生を最大限に楽しんでいるように見える。ハードなビジネススタイルに見合うワールドトラベラーとしてのコツや心構えとは、いったいどういうものなのだろう。その秘訣をほんの少し、教えてもらえたら。東京・青山のトータルコンセプトショップ「ポール・スミス・スペース」オープニングのために来日したポールに、旅の話を聞いた<span id="more-9830"></span>。</p>
<p>　<br />
<strong>ライフスタイル・トラベルスタイル</strong></p>
<p>── これまでさまざまな国を訪ねていると思いますが、かなり多くの旅を日帰りで実現しているというのは本当ですか?<br />
ポール・スミス(以下P)：行きたくてたまらない場所は世界中にたくさんあるのですが、厳しいスケジュールに忙殺されて、なんせ時間が取れなかったんです。80年代前半、私はどうしても中国に行きたかった。とはいっても年に2度東京へ、4度パリとミラノへ出張することが決まっているような身で、プライベートの旅をする時間はありません。そこで「そうだ、1 泊で帰ってくればいいじゃないか！」と思いついたんです。夜中に北京に到着、翌朝に万里の長城へ出向き、それから天安門広場などを周遊して、その足で夜中に飛行機に乗り込み帰宅しました。それ以外に中国行きを実現する方法がなかったんです。たとえばインドに旅行するとしますね。しっかり観光するには少なくとも2〜3日、願わくは2週間は必要だと思うんです。でも、そんな時間は取れるわけがない。そこで私は、けっこう楽しめる旅行法を編みだしたんです。それは、まず前もってその土地の情報を完璧に調べあげる。そして人に会う段取りをつけ、旅行資金を用意して、あとは現地で使うだけ、という方法です。このやりかただと、1日でたくさんのことがこなせます。ベトナム、カンボジア、LA、サンフランシスコへの旅は、こんな感じでうまくいきました。眠ることなんか考える暇もないので、時差ボケにすらなりませんよ。</p>
<p>　<br />
<strong>パリ、ファッションショー黎明期</strong></p>
<p>── ところでデザイナーになる前、パリのオートクチュールのショーを見にいっていたということですが。<br />
P：妻のポーリーンは、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートでファッションデザインを学び、27歳のとき、私の故郷であるイギリス中部のノッティンガムにファッションを教えにきました。彼女は年に2回、ショーを見るために生徒たちを連れてパリに行っていました。それに、私も同行していたんです。最近のオートクチュール・ショーは巨大なホールで開催され、2,000 人もの観客を動員する大がかりなものです。昔は、単なるサロンか店のなかでショーがおこなわれていました。BGMなんていうものはなく、モデルもけっして美しいわけではなかった。でも、彼女たちはすごく個性的な顔立ちで、とてもエレガントでした。発表される品数もまだ少なくてね。ハウスマヌカンが「次は31番です！」なんて叫ぶと、観客は膝の上のラインシートを見て、その番号の服の特徴や布地をチェックする、なんていう具合です。たった15人から30人の観客しかいない、かなり親密度の高いショーでした。なぜなら、約2週間の問、1日に2回ショーがあり、あらゆるクライアントが来るんです。ショーを企画したパリ・クチュール組合学校は、生徒たちにショーを見にいかせていました。当時の客層はなかなか愉快でしたよ。生徒たちに加えてお金持ちの老婦人とダイアナ・ロスのようなポップ・スターまでが混在していたんですから。修道院で仕立て屋になるために勉強中の少女の付き添いで、尼僧が来ていたりもしたんですよ。</p>
<p>── 当時のショーで印象に残っているものはありますか?<br />
P：そうですね、思い起こせばいろんな貴重な経験をしました。ショーであのシャネルを見かけたことがあるんです。彼女が、亡くなる直前でした。驚きましたよ、目の前で、座っていたのですから。それから、サンローランの「オール・ブラック・コレクション」も見ました。ベトナム戦争に対する抗議の強いメッセージが込められていて、感動しましたね。それと、彼が初めて手がけたシースルーのシルク・シフォンのトップスを使ったショーのことも憶えています。モデルがタキシードの下に薄手のトップスを着て現れて、ジャケットを脱ぐと観客が驚きのあまり、はっと息を呑んでいました。キャットウォークで胸が露出されたのは、このときが初めてでしたね。いまやファッション産業はあまりに巨大になってしまって、人間的なぬくもりに欠けています。以前は、すぐ傍にいるデザイナーに会えたし、作品に触ることもできたのに。</p>
<p>　<br />
<strong>変わりゆく日本の印象</strong></p>
<p>── ずいぶん前から日本にはいらっしゃっているんですよね?<br />
P：現在は年に2度ほどですが、以前はもっと頻繁に来ていました。1984年から定期的に来日しています。80年代は、自分が外国人であることをよく痛感させられたものでした。みんなが私を見て「わー、外人だ！」なんて言うんです。あるとき、金沢から大阪まで電車で旅していると、子どもたちが私のところに寄ってきました。どうやら英語を話してみたかったようなんですが、イギリスの切手を送ってくれとねだられたのを覚えています。</p>
<p>── 当時とくらべて、どのように日本は変わりましたか？<br />
P：海外旅行をする日本人がとても増えたので、文化はかなり変わったと思います。昔のように古いしきたりに縛られることがなくなった印象があります。でも私が気に入っている、目上の人を敬うという慣習は変わっていないのではないでしょうか。知恵と経験がとても尊重されているのはいいことです。</p>
<p>── 日本ではほかにどこを訪れましたか?<br />
P：初めのうちは、日本中をたくさん旅しました。福岡や名古屋、京都、沖縄、北海道などいろんなところに。でもこのごろは、それほど観光はしません。今週もほとんど、このホテルにこもっていると思いますよ。</p>
<p>　<br />
<strong>縦横無尽に地球を駆けまわる</strong></p>
<p>── 今回の来日前はどちらにいらしたんですか?<br />
P：じつは休暇を取っていたんです。たった8日間でしたが、こんなチャンスはなかなかないんですよ。今回はカリブ海に浮かぶセント・バーツ島に滞在していました。ここは何度も訪れています。私はカリブ海が大好きなんですが、カリブ海といったら通常はおいしい食べ物や行き届いたサービスは期待できないんです。でも、セント・バーツ島はフランス領なので、この問題が解消される。つまり、彼らと待ち合わせしたら、約束したその時間に来てくれますよ。でも、ほかの島だったらおそらくこうなるでしょう。「遅れてすみません！ ビールを飲んで一服していたので」ってね！</p>
<p>── 旅行に持っていくものは?<br />
P：iPod、雑誌、本。でも、心休まる時間がなんだか嬉しくて、触れずじまいになることもたびたびですけれどね。それから、ノートもいつも持ち歩いています。常日頃から、アイデアが浮かぶとノートに書き留めているんです。</p>
<p>── なにか旅するうえでの工夫のようなものはありますか?<br />
P：私はこういう仕事柄なので、服に関してのアドバイスをひとつ。もしスーツがシワになってしまったら、パスルームに吊るして、お湯を張って、蒸気でシワを伸ばすんです。きれいになりますよ。ただし、パンツが、風呂桶に落ちてしまわないように、注意しないといけません。これでビジネストリップもばっちりです。</p>
<p>── 次はどちらに行かれますか？<br />
P：来週、工場視察のためにフィレンツェを訪れます。というのも、私のブランドのレディスはすべてフィレンツェ近郊でつくられているからです。イタリアには、私の家もあるんです。サルディニアの海辺と、夏を過ごすために、トスカーナの田舎にね。</p>
<p>── ほかのヨーロッパ諸国には行かれますか?<br />
P：ウィーンとベルリンにはたまに行きます。ベルリンは活気に満ちていますね。ベルリンの壁が崩壊し、街が再構築されて、大幅に変わりました。ミュージックシーンもエキサイティングで、いいクラブもあるし、有能なグラフィックデザイナーもいます。ロンドンに家具の店をオープンしたので、バイヤーと一緒にパリへ買いつけに向かいます。パリのクリニャンクールの蚤の市や、ウィーン、バルセロナ、マドリッドやストックホルムに買いつけに出かけることもあります。これは長年、私が温めてきた計画でした。ただ、あまりにも楽しいんでアブナイですね。とはいっても、本業を忘れているわけではありませんよ。年に2回、13コレクションのデザインも怠りませんから。</p>
<p>　<br />
<strong>やっぱり旅はやめられない</strong></p>
<p>── 旅で危険な目に遇ったことは？<br />
P：リトアニアに行ったことがあるんです。最近は旅行者が多いようですが、私が行ったときは、まだ旅行者も少なかった。なかなかタフな場所でしたよ。なにしろ当時は、ボディガードが必要でしたから。雇ったドライバーの車はおんぼろでしたが、もちろん彼は銃を持っていました。35年前には、モスクワにも行きました。これもなかなかの経験でした！ あろうことか外国人の部屋はつねに盗聴されていて、各階には警備員が配置されていた。通りでは、リーバイスのジーンズやスニーカーを履いていると呼び止められるんです。私の後をつけてきて、スニーカーが欲しいとせがんできた集団もいましたね。とにかく大変だった。ほかに靴を持っていないからと断ると、「僕の帽子をあげるから、どう？」なんて言って、さらに迫ってくるんです。すごく怖かったですよ。あれはひどかったなあ。</p>
<p>── では今後、訪れたい国は?<br />
P：オーストラリアと南アメリカには行ってみたいですね。ベネズエラとアルゼンチンにもとても行きたい。しかし考えてみるに、ずいぶんといろんなところに行ったものです。モロッコやエジプト、スペインも。スペインではマドリッドとバルセロナが好きですね。真夜中に食事をする習慣はいただけないけれど。でも、また訪れたい場所です。</p>
<p>── いちばんくつろげる場所はどこですか？<br />
P：私の家はロンドンにありますから、やっぱりロンドンにいると落ち着きますよ。でも、そんな旅の苦い経験があり、ロンドンという安息の場所があったとしても、旅に出ることはやめられない。歳をとってくるとなんとなくぶらぶら歩きまわるのが嫌になると言いますが、私は人に興味があるので、身のまわりで起こることすべてを楽しく見つめているんです。だからその意味で、さまざまなことが起こる旅もくつろげる場所のひとつなのだと思います。</p>
<p>　<br />
ポール・スミス　Paul Smith<br />
ファッションデザイナー<br />
1970年にノッティンガムで最初のショップをオープンして以来、イギリス人デザイナー、ポール・スミスは、いまもなおファッション業界で名を轟かせ、もっとも成功を収めているデザイナーのひとり。彼は、組織をたえずクリエイティブな存在にすることに関して、いっさいの妥協をせず、みずから世界中のショップに赴き、スタッフと話しあい、さまざまな顧客との対話を交わすことに多大な時間を割いている。疲れを知らないエネルギッシュな姿勢と飾らない性格は、彼の会社が業界のトッププランナーでありつづける大きな要因のひとつだ。<a href="http://www.paulsmith.co.jp/" target="_blank">http://www.paulsmith.co.jp/</a></p>
<p>　<br />
このインタビューは<a href="http://www.fujisan.co.jp/Product/1281680322/b/111947/ap-kneehighmedia" target="_blank">『PAPERSKY』No.18</a> (2006)に掲載されています。<br />
インタビュー&#038;構成：マーティン ウェッブ<br />
Interview &#038; Text: Martin Webb</p>
<p><img src="http://www.papersky.jp/wp-content/uploads/2011/10/paulsmith.jpg" alt="" title="paulsmith" width="528" height="350" class="alignnone size-full wp-image-9834" /></p>
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		<title>旅の達成感に通じるもの｜アルボムッレ・スマナサーラ</title>
		<link>http://www.papersky.jp/2011/10/07/ven-alubomulle-sumanasara/</link>
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		<pubDate>Fri, 07 Oct 2011 00:00:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>PAPERSKY</dc:creator>
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		<category><![CDATA[jp]]></category>
		<category><![CDATA[interview]]></category>
		<category><![CDATA[sri lanka]]></category>

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		<description><![CDATA[スリランカ上座仏教（テーラワーダ仏教）の僧侶であるアルボムッレ・スマサーラ長老は、初期仏教の伝道、ヴィパッサナー瞑想の指導を日本で行っている。講演会や数々の著作、瞑想会の実施など、長老はお釈迦さまの言葉を通じて、仏教が現代社会を生きるうえで実践できる教えであることを広く伝えている。仏教というのは、教徒に「信仰」を求めるほかの宗教とは異なるということ。いまこの場で役に立つ、現在を幸福に生きるための教えであること。科学的で精密な論理に基づく仏教の瞑想には、無心で歩を前へと進めるひとり旅と類似点があるのではないだろうか？　文化の垣根を越え、さまざまな国で普遍的なお釈迦さまの言葉を伝える長老に、その教えの本質について話を聞いた。 仏教の歴史が根づいた国からの来日 ──スリランカでお生まれになって、熱心な仏教国ではない日本に来られて、文化的な壁を感じるなどの苦労はありましたか？ 「呼吸をするように当たり前のこととしてスリランカで仏教を学んできた私にとって、日本で仏教を教えることになったのは、かつてない挑戦でした。日本では、仏教があったとしても大乗仏教で、それも一般とは離れた別の世界です。そして一般的には、アメリカやヨーロッパのものが貴いと思われていて、アジアのものをとくに好まない傾向があるでしょ？　この極限までにスリランカと異なる環境で、自分が何を語ることができるのか、それがどれだけの挑戦だかわかりますか？　でも、なんてことなくできてしまうんです。仏教の教えを学んで、実践していけば、誰とでも仲良くなれますし、どこでも生活できていけるという自信につながるわけですから」 ──スリランカに根づいた仏教の教えに子供のころから慣れ親しんできたことで、環境に関わらず揺るぐことがないということですね。 「スリランカは紀元前200年のころから仏教国です。大変歴史が長い。だから我々にとって、『スリランカ人の考え』と『仏教』は同義語のようなものなんです。模範となるのはお釈迦さまの教えですから、昔から変わりません。その仏教というのはものすごい哲学です。ただ、いわゆる哲学者にとっての哲学と違うのが、『このような生き方で幸せになることができるんだよ』と、日ごろの生活で具体的に実践できる方法を教えてくれることです。そして、ほかの宗教にあるような、迷信みたいな信仰はありません。神さまのいうことを聞きなさいと束縛するわけではなく、その教えを納得できるまで反論を繰り返して、人間を中心に喋り、考えるものです。これほど人々に自由を与える教えはありません。仏教においては、自分が主人なんです。どんな環境に行っても自分を管理するのは自分ですから、そこでやるべきことをやっていれば、困ることなどありません」 仏教が約束する自由と平等 ──政治と宗教が結びつくと、その自由が奪われてしまうことがあります。仏教の教えを実践することと、ある政治の仕組みがある現実社会を生きることとに隔たりを感じることはありませんか？ 「まず大前提として、仏教は非暴力の思想ですから、政治に暴力で抵抗することはありません。それと、我々は現実社会で教えを実践する現実主義者ですから、その時代の政府がやっていることは、まあ素直に聞いてあげる（笑）。もしあまりにひどいことをやる政府だったら、何がしかの手段で倒そうとする。だから、スリランカでは選挙があるたびに政府が替わります（笑）。仏教から見れば、現在の政治制度としての民主主義は本当の民主主義ではありません。政治に支配された状態で、人間が自由を獲得することなんてできません。そうした現実社会で、暴力なしに民主的な世界を作る教えを伝えようとするのが、仏教の優れた点です」 ──ですが、仏教国のミャンマーでも、軍事独裁政権が敷かれ、人々が弾圧されています。 「それは非常に難しい問題です。ミャンマーの国民はとても優しくて立派なんですが、その優しさが仇になっているといえます。実際のところ、軍事政権といえば世界のどこも認めていないでしょ？　だけど、その政権の人々がお寺や瞑想道場に行ったりして、『仏教を守っているんだぞ』と国民に示しているんですね。それは自分の立場を、自分の命を守るためなんですが、そういった態度を示されると一般の仏教徒は反対運動を起こしにくい。以前、私もミャンマーで瞑想の指導をしたことがあるんですが、お寺の周りに軍隊や警察の警備の人が大勢集まって、異様な状態になっていたことがあります。お寺の人に聞いたら、軍の指導者と大臣が瞑想をするためにやってくるということだったんですね。だけど、その政府の偉い人たちも道場に入ったら、一般の人と同じ服を着て、同じご飯を食べて修行するわけです。そうなってくるとちょっと難しい。同じ仏教徒だ、という兄弟意識が生まれますからね」 ──自分たちの自由を奪う兄弟、というのは国民にとってとても複雑な相手です。 「私は基本的に、政治的なことを話す立場の人間ではありませんが、だけど仏教は世の中を観察するのでもう少し話させてもらいます。ミャンマーは軍事政権で、しかも長い間、その独裁が続いています。最近、珍しく暴動が起こって何名かが亡くなりましたが、でも、イラクやパレスチナのように、毎日のように死者が出ることはありませんよね。とにかくギリギリまで平和な手段で、民主主義的な世界を生み出そうというのが仏教の根本にあるから、あのミャンマーにおいても惨事が起こりにくいのです」 ──非暴力の思想が無条件に成立することで、そのミャンマーのように苦しむ人もいるわけですよね。非暴力の背景となる思想について教えてください。 「すべての生命は平等、という考えです。一神教の神さまのように、いうことを聞き入れさせるだけで反論を許さず、束縛するような親分は仏教には存在しません。仏教は対話の世界です。犬や猫や虫は話さないけど、どんな生命にも平等に生きる権利がある、ということを仏教は知っているのです」 ヴィパッサナー瞑想の科学性 ──自分の動作を頭で把握して、動作によって起こる感覚の変化を感じ取るヴィパッサナー瞑想の目的は、自分を知ることだと考えて問題ないですか？ 「ええ、基本的には、自分の組織を細かく分解して、物体は物体として、精神は精神として、それぞれの機能を理解するための分析がヴィパッサナー瞑想です。要するに、自分というシステムの勉強です。もし、車を小さなネジの１本まですべてをバラして、ひとつひとつの機能を知って組み立て直せたら、その人は車のシステムを完全に理解したことになるでしょ？　それと同じです。生きているのは自分。正しく生きていくために、自分を正確に理解する必要があるのは明白なことです」 ──神によって創られた存在としてではなく、現実を生きる人間として自分を把握するのですね。 「神さまなんてインチキは休み休みいってほしいですよ（笑）。そんな証拠もないことを信じてしまうのは、まず自分を知らないからそう考えてしまうわけでしょ？　自分を産んでくれたのは親であって、なにかあったときに手助けしてくれるのは母親と父親です。それなら、神さまのいうことを聞くのではなく、両親のいうことを聞くべきでしょ？　無条件で自分を心配してくれるのが両親なんだから、もし親のいうことに逆らったらひどい目に遭いますよ」 ──科学的な物事の見方が大前提なんですね。 「ここに私が生きていることは自分でも認識できるハッキリした事実ですし、私が悪いことをしたら私に跳ね返ってくる。とても単純なことです。自分の生き方次第で、人生の結果が出てくるわけです。そうすると、『私とは何なのか分析してみよう』となり、それを追求すると、どんな生命も平等で同じ機能を持って生きていることがわかってくる。自分を知ることで、あらゆる生命を知ることになる。そうすると、生きとし生けるものの生命を平等にとらえると同時に、神の存在が消えてしまいます。何にも支配されていないことがわかりますからね」 ──自分を分析して、理解するというプロセスは、本当に科学的な研究のようです。 「ものを調べるというのは、仏教的な習慣なんです。私が６歳ぐらいのとき、蓄音機が家にあったんですね。父親は修理が得意でしたから、どこかで壊れると家に持ってきて、直してあげていました。部品をひとつひとつまでバラして、修理してまた組み立て直す。そして、大事そうにレコードをかけるんです。どうして音楽が流れるのか、私は不思議で仕方なかった。蓄音機は壊れても修理できるから、いくら触っても父親は何もいわないんですね。そこで、あの黒い円盤になにか秘密があると考えました。でも大事にしまっていて、父は触らせてくれません。あるとき見ることができたんですが、溝にはどうやら何もない。中央のラベルが怪しいと思った。一生懸命はがそうとしても、ガッチリついていてとてもはがれない。なおさら怪しいでしょ（笑）？　それから少したって、知り合いの家でついに割れたレコードを見つけて、両面のラベルの間の部分が見えたけど、でも何もなかった。それからまた調べたら、針を触ると音が出て、それを溝に置いて回すと音楽が流れると６歳にして発見しちゃったんです。自分のことを何も知らない場合は、自分たるものに何かある、神さまに支配されている、と思っちゃうでしょ？やっぱり研究しなくちゃいけないんですよ」 瞬間ごとの達成感が幸福へ ──いまという瞬間に注意を集中して、いまここにいる自分に気づくというヴィパッサナー瞑想でなにかを発見することは、ひとり旅で自分の世界に洞察を働かせることと似ている気がします。 「知らないことは怖いというか、不安なんですね。だから我々は、発見するために探検をする。旅も同じですね。全然言葉が通じない人に出会ったら、どうやってコミュニケーションをとるか考えて、自分が知りたいことを知ろうとします。自分なりの発見を求めて、とにかく成功させるためにその瞬間ごとを一生懸命に生きるわけです」 ──遠い先の目標を目指すのではなく、瞬間ごとに集中するのが重要なんですね。 「目標を設定してもいいですけど、妄想にとらわれてはいけない。いま何をやるのかが重要ですから。だって、いまの瞬間を生きているわけでしょ？　受験や仕事などで悩んでしまう人もいますが、日々、１分単位で挑戦をしていたらいいんです。今日１日を頑張ったら、充実感で終わるでしょ？　そうしたらまた明日も頑張るでしょうに。時間はずっと進むものであって、停止しません。だから、いまするべき挑戦をすれば、それでいい。我々は時間をとても無駄に使っています。妄想ばっかりだから。きちんと時間を使わないといけません」 ──妄想を消し去ることも、自分を観察する瞑想で可能になるわけですね。 「タバコがやめられなかったり、勉強に集中できなかったりするのも妄想があるからで、その原因を取り除けばすぐに変われます。心のトラブルですよ。妄想を続けるんではなく、研究すればいいんです。妄想がなければ、欲も怒りも憎しみも嫉妬も悲しみも悩みも生まれません。すべて妄想の結果ですから。事件が起こったり、悩む人が多い現代には、論理的で科学的な仏教のような教えが必要です。お釈迦さまの言葉を理解し、本人の意思で考えることができたら明るく幸せに生きることができるんです」 ──不快感やストレスを引き起こすような外的な要因も、妄想に過ぎないんですか？ 「科学的に見ると、自分の体に何かの情報が触れてるだけ。その刺激で、情報そのものを知ろうとせずに妄想しているだけです。仮に同じものを３人が見たとして、３人がそれぞれ何かを感じたとしたら、それは主観が現れているからにすぎません。主観はあくまで主観であって、事実ではありません。情報そのものを冷静に見ることができれば、ほとんどの問題を解決することができますよ」 ──主観と妄想。すべて、自分を知ることとつながっているんですね。 「だから、自分を知ることで無我を発見できるんです。つまり、いろいろと研究することで、発見するだけに過ぎません。自我がなくなるわけではなく、自我なんて最初からないということに気づくのです。自我があるという錯覚があるから、苦しむんですよ。その錯覚が消えると同時に人が変わって、いつでも淀みが無くて、明るくて、軽くて、活発で、瞬時に判断できる心を持つことができるんです」 ──それが解脱ということですか？ 「自分を完全に理解して、無我を発見することは問題の最終解決になります。最終的な答を見つけることがつまり、解脱や涅槃です。なすべくことはなし終えた、という勝利の宣言のようなものです。人生を左右する業のはたらきもありますから、すぐにすべてを理解することは簡単ではありませんが、真剣に瞑想を行えば、どんな人でも幸せな道を自分で築くことができるんです」 ──そうして幸せになるために、瞬間ごとを大切に生きていくわけですね。 「『幸せ』という言葉を正確に定義することができますか？　例えば、結婚ができるかどうか、家を建てられるかどうか、というような一時的なことではなく、もっと人類誰もが獲得できる普遍的なものであるはずです。それが何かというと、自分が挑戦したことを成功させ、達成感を得られるかどうかです。我々は毎日、いろいろな問題にぶつかりますが、その都度、解決すればいいんです。その達成感が幸せなんですよ。全然特別なことではなくて、日々の生き方そのものに幸せがあるんです。いまの瞬間を幸せになってください。そうすれば、次の瞬間も幸せになれますよね。その瞬間ごとを幸せに生きるための方法を教えてくれるのが、仏教なんです」 　 &#8230; <a href="http://www.papersky.jp/2011/10/07/ven-alubomulle-sumanasara/"><br />続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>スリランカ上座仏教（テーラワーダ仏教）の僧侶であるアルボムッレ・スマサーラ長老は、初期仏教の伝道、ヴィパッサナー瞑想の指導を日本で行っている。講演会や数々の著作、瞑想会の実施など、長老はお釈迦さまの言葉を通じて、仏教が現代社会を生きるうえで実践できる教えであることを広く伝えている。仏教というのは、教徒に「信仰」を求めるほかの宗教とは異なるということ。いまこの場で役に立つ、現在を幸福に生きるための教えであること。科学的で精密な論理に基づく仏教の瞑想には、無心で歩を前へと進めるひとり旅と類似点があるのではないだろうか？　文化の垣根を越え、さまざまな国で普遍的なお釈迦さまの言葉を伝える長老に、その教えの本質について話を聞いた。<span id="more-9730"></span></p>
<p><strong>仏教の歴史が根づいた国からの来日</strong></p>
<p>──スリランカでお生まれになって、熱心な仏教国ではない日本に来られて、文化的な壁を感じるなどの苦労はありましたか？<br />
「呼吸をするように当たり前のこととしてスリランカで仏教を学んできた私にとって、日本で仏教を教えることになったのは、かつてない挑戦でした。日本では、仏教があったとしても大乗仏教で、それも一般とは離れた別の世界です。そして一般的には、アメリカやヨーロッパのものが貴いと思われていて、アジアのものをとくに好まない傾向があるでしょ？　この極限までにスリランカと異なる環境で、自分が何を語ることができるのか、それがどれだけの挑戦だかわかりますか？　でも、なんてことなくできてしまうんです。仏教の教えを学んで、実践していけば、誰とでも仲良くなれますし、どこでも生活できていけるという自信につながるわけですから」</p>
<p>──スリランカに根づいた仏教の教えに子供のころから慣れ親しんできたことで、環境に関わらず揺るぐことがないということですね。<br />
「スリランカは紀元前200年のころから仏教国です。大変歴史が長い。だから我々にとって、『スリランカ人の考え』と『仏教』は同義語のようなものなんです。模範となるのはお釈迦さまの教えですから、昔から変わりません。その仏教というのはものすごい哲学です。ただ、いわゆる哲学者にとっての哲学と違うのが、『このような生き方で幸せになることができるんだよ』と、日ごろの生活で具体的に実践できる方法を教えてくれることです。そして、ほかの宗教にあるような、迷信みたいな信仰はありません。神さまのいうことを聞きなさいと束縛するわけではなく、その教えを納得できるまで反論を繰り返して、人間を中心に喋り、考えるものです。これほど人々に自由を与える教えはありません。仏教においては、自分が主人なんです。どんな環境に行っても自分を管理するのは自分ですから、そこでやるべきことをやっていれば、困ることなどありません」</p>
<p><strong>仏教が約束する自由と平等</strong></p>
<p>──政治と宗教が結びつくと、その自由が奪われてしまうことがあります。仏教の教えを実践することと、ある政治の仕組みがある現実社会を生きることとに隔たりを感じることはありませんか？<br />
「まず大前提として、仏教は非暴力の思想ですから、政治に暴力で抵抗することはありません。それと、我々は現実社会で教えを実践する現実主義者ですから、その時代の政府がやっていることは、まあ素直に聞いてあげる（笑）。もしあまりにひどいことをやる政府だったら、何がしかの手段で倒そうとする。だから、スリランカでは選挙があるたびに政府が替わります（笑）。仏教から見れば、現在の政治制度としての民主主義は本当の民主主義ではありません。政治に支配された状態で、人間が自由を獲得することなんてできません。そうした現実社会で、暴力なしに民主的な世界を作る教えを伝えようとするのが、仏教の優れた点です」</p>
<p>──ですが、仏教国のミャンマーでも、軍事独裁政権が敷かれ、人々が弾圧されています。<br />
「それは非常に難しい問題です。ミャンマーの国民はとても優しくて立派なんですが、その優しさが仇になっているといえます。実際のところ、軍事政権といえば世界のどこも認めていないでしょ？　だけど、その政権の人々がお寺や瞑想道場に行ったりして、『仏教を守っているんだぞ』と国民に示しているんですね。それは自分の立場を、自分の命を守るためなんですが、そういった態度を示されると一般の仏教徒は反対運動を起こしにくい。以前、私もミャンマーで瞑想の指導をしたことがあるんですが、お寺の周りに軍隊や警察の警備の人が大勢集まって、異様な状態になっていたことがあります。お寺の人に聞いたら、軍の指導者と大臣が瞑想をするためにやってくるということだったんですね。だけど、その政府の偉い人たちも道場に入ったら、一般の人と同じ服を着て、同じご飯を食べて修行するわけです。そうなってくるとちょっと難しい。同じ仏教徒だ、という兄弟意識が生まれますからね」</p>
<p>──自分たちの自由を奪う兄弟、というのは国民にとってとても複雑な相手です。<br />
「私は基本的に、政治的なことを話す立場の人間ではありませんが、だけど仏教は世の中を観察するのでもう少し話させてもらいます。ミャンマーは軍事政権で、しかも長い間、その独裁が続いています。最近、珍しく暴動が起こって何名かが亡くなりましたが、でも、イラクやパレスチナのように、毎日のように死者が出ることはありませんよね。とにかくギリギリまで平和な手段で、民主主義的な世界を生み出そうというのが仏教の根本にあるから、あのミャンマーにおいても惨事が起こりにくいのです」</p>
<p>──非暴力の思想が無条件に成立することで、そのミャンマーのように苦しむ人もいるわけですよね。非暴力の背景となる思想について教えてください。<br />
「すべての生命は平等、という考えです。一神教の神さまのように、いうことを聞き入れさせるだけで反論を許さず、束縛するような親分は仏教には存在しません。仏教は対話の世界です。犬や猫や虫は話さないけど、どんな生命にも平等に生きる権利がある、ということを仏教は知っているのです」</p>
<p><strong>ヴィパッサナー瞑想の科学性</strong></p>
<p>──自分の動作を頭で把握して、動作によって起こる感覚の変化を感じ取るヴィパッサナー瞑想の目的は、自分を知ることだと考えて問題ないですか？<br />
「ええ、基本的には、自分の組織を細かく分解して、物体は物体として、精神は精神として、それぞれの機能を理解するための分析がヴィパッサナー瞑想です。要するに、自分というシステムの勉強です。もし、車を小さなネジの１本まですべてをバラして、ひとつひとつの機能を知って組み立て直せたら、その人は車のシステムを完全に理解したことになるでしょ？　それと同じです。生きているのは自分。正しく生きていくために、自分を正確に理解する必要があるのは明白なことです」</p>
<p>──神によって創られた存在としてではなく、現実を生きる人間として自分を把握するのですね。<br />
「神さまなんてインチキは休み休みいってほしいですよ（笑）。そんな証拠もないことを信じてしまうのは、まず自分を知らないからそう考えてしまうわけでしょ？　自分を産んでくれたのは親であって、なにかあったときに手助けしてくれるのは母親と父親です。それなら、神さまのいうことを聞くのではなく、両親のいうことを聞くべきでしょ？　無条件で自分を心配してくれるのが両親なんだから、もし親のいうことに逆らったらひどい目に遭いますよ」</p>
<p>──科学的な物事の見方が大前提なんですね。<br />
「ここに私が生きていることは自分でも認識できるハッキリした事実ですし、私が悪いことをしたら私に跳ね返ってくる。とても単純なことです。自分の生き方次第で、人生の結果が出てくるわけです。そうすると、『私とは何なのか分析してみよう』となり、それを追求すると、どんな生命も平等で同じ機能を持って生きていることがわかってくる。自分を知ることで、あらゆる生命を知ることになる。そうすると、生きとし生けるものの生命を平等にとらえると同時に、神の存在が消えてしまいます。何にも支配されていないことがわかりますからね」</p>
<p>──自分を分析して、理解するというプロセスは、本当に科学的な研究のようです。<br />
「ものを調べるというのは、仏教的な習慣なんです。私が６歳ぐらいのとき、蓄音機が家にあったんですね。父親は修理が得意でしたから、どこかで壊れると家に持ってきて、直してあげていました。部品をひとつひとつまでバラして、修理してまた組み立て直す。そして、大事そうにレコードをかけるんです。どうして音楽が流れるのか、私は不思議で仕方なかった。蓄音機は壊れても修理できるから、いくら触っても父親は何もいわないんですね。そこで、あの黒い円盤になにか秘密があると考えました。でも大事にしまっていて、父は触らせてくれません。あるとき見ることができたんですが、溝にはどうやら何もない。中央のラベルが怪しいと思った。一生懸命はがそうとしても、ガッチリついていてとてもはがれない。なおさら怪しいでしょ（笑）？　それから少したって、知り合いの家でついに割れたレコードを見つけて、両面のラベルの間の部分が見えたけど、でも何もなかった。それからまた調べたら、針を触ると音が出て、それを溝に置いて回すと音楽が流れると６歳にして発見しちゃったんです。自分のことを何も知らない場合は、自分たるものに何かある、神さまに支配されている、と思っちゃうでしょ？やっぱり研究しなくちゃいけないんですよ」</p>
<p><strong>瞬間ごとの達成感が幸福へ</strong></p>
<p>──いまという瞬間に注意を集中して、いまここにいる自分に気づくというヴィパッサナー瞑想でなにかを発見することは、ひとり旅で自分の世界に洞察を働かせることと似ている気がします。<br />
「知らないことは怖いというか、不安なんですね。だから我々は、発見するために探検をする。旅も同じですね。全然言葉が通じない人に出会ったら、どうやってコミュニケーションをとるか考えて、自分が知りたいことを知ろうとします。自分なりの発見を求めて、とにかく成功させるためにその瞬間ごとを一生懸命に生きるわけです」</p>
<p>──遠い先の目標を目指すのではなく、瞬間ごとに集中するのが重要なんですね。<br />
「目標を設定してもいいですけど、妄想にとらわれてはいけない。いま何をやるのかが重要ですから。だって、いまの瞬間を生きているわけでしょ？　受験や仕事などで悩んでしまう人もいますが、日々、１分単位で挑戦をしていたらいいんです。今日１日を頑張ったら、充実感で終わるでしょ？　そうしたらまた明日も頑張るでしょうに。時間はずっと進むものであって、停止しません。だから、いまするべき挑戦をすれば、それでいい。我々は時間をとても無駄に使っています。妄想ばっかりだから。きちんと時間を使わないといけません」</p>
<p>──妄想を消し去ることも、自分を観察する瞑想で可能になるわけですね。<br />
「タバコがやめられなかったり、勉強に集中できなかったりするのも妄想があるからで、その原因を取り除けばすぐに変われます。心のトラブルですよ。妄想を続けるんではなく、研究すればいいんです。妄想がなければ、欲も怒りも憎しみも嫉妬も悲しみも悩みも生まれません。すべて妄想の結果ですから。事件が起こったり、悩む人が多い現代には、論理的で科学的な仏教のような教えが必要です。お釈迦さまの言葉を理解し、本人の意思で考えることができたら明るく幸せに生きることができるんです」</p>
<p>──不快感やストレスを引き起こすような外的な要因も、妄想に過ぎないんですか？<br />
「科学的に見ると、自分の体に何かの情報が触れてるだけ。その刺激で、情報そのものを知ろうとせずに妄想しているだけです。仮に同じものを３人が見たとして、３人がそれぞれ何かを感じたとしたら、それは主観が現れているからにすぎません。主観はあくまで主観であって、事実ではありません。情報そのものを冷静に見ることができれば、ほとんどの問題を解決することができますよ」</p>
<p>──主観と妄想。すべて、自分を知ることとつながっているんですね。<br />
「だから、自分を知ることで無我を発見できるんです。つまり、いろいろと研究することで、発見するだけに過ぎません。自我がなくなるわけではなく、自我なんて最初からないということに気づくのです。自我があるという錯覚があるから、苦しむんですよ。その錯覚が消えると同時に人が変わって、いつでも淀みが無くて、明るくて、軽くて、活発で、瞬時に判断できる心を持つことができるんです」</p>
<p>──それが解脱ということですか？<br />
「自分を完全に理解して、無我を発見することは問題の最終解決になります。最終的な答を見つけることがつまり、解脱や涅槃です。なすべくことはなし終えた、という勝利の宣言のようなものです。人生を左右する業のはたらきもありますから、すぐにすべてを理解することは簡単ではありませんが、真剣に瞑想を行えば、どんな人でも幸せな道を自分で築くことができるんです」</p>
<p>──そうして幸せになるために、瞬間ごとを大切に生きていくわけですね。<br />
「『幸せ』という言葉を正確に定義することができますか？　例えば、結婚ができるかどうか、家を建てられるかどうか、というような一時的なことではなく、もっと人類誰もが獲得できる普遍的なものであるはずです。それが何かというと、自分が挑戦したことを成功させ、達成感を得られるかどうかです。我々は毎日、いろいろな問題にぶつかりますが、その都度、解決すればいいんです。その達成感が幸せなんですよ。全然特別なことではなくて、日々の生き方そのものに幸せがあるんです。いまの瞬間を幸せになってください。そうすれば、次の瞬間も幸せになれますよね。その瞬間ごとを幸せに生きるための方法を教えてくれるのが、仏教なんです」</p>
<p>　<br />
アルボムッレ・スマナサーラ<br />
1945年、スリランカ生まれ。テーラワーダ仏教（スリランカ上座仏教）長老。13歳で出家し、スリランカの国立大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、1980年に研究のために来日。1994年に日本テーラワーダ仏教協会を設立し、2001年に<a href="http://www.j-theravada.net/gotami.html" target="_blank">ゴータミー精舎</a>を開基。現在はゴータミー精舎を拠点に、初期仏教の伝道、ヴィパッサナー瞑想の指導に従事している。おもな著書に『結局は自分のことを何も知らない』『怒らないこと—役立つ初期仏教法話（１）』『ブッダの幸福論』『現代人のための瞑想法』『希望のしくみ』（養老孟司との共著）など。</p>
<p>　<br />
このインタビューは、<a href="http://www.fujisan.co.jp/Product/1281680322/b/189729/ap-kneehighmedia" target="_blank">Papersky No.25</a> (2008)に掲載されています。<br />
インタビュー＆構成：中島良平　写真：相田晴美<br />
Interview &#038; Text: Ryohei Nakajima   Photography: Harumi Aida</p>
<p><img src="http://www.papersky.jp/wp-content/uploads/2011/09/vas.jpg" alt="" title="vas" width="528" height="351" class="alignnone size-full wp-image-9732" /></p>
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		<title>“知らせたい”本能｜石川次郎</title>
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		<pubDate>Sun, 18 Sep 2011 23:50:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>PAPERSKY</dc:creator>
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		<description><![CDATA[石川次郎さんと話していると“面白い&#8221;という単語が何度も出てくる。『POPEYE』の創刊に加わり、『BRUTUS』『Tarzan』『GULLlVER』など数多くの雑誌の編集長を務めた人。『POPEYE』『BRUTUS』は高度成長期における若者文化の担い手としての雑誌の地位を確立し、また『Tarzan』では専門性に特化した雑誌作りのお手本を示した。そう、彼の手がけた雑誌はすべて時代のニーズを捉え、ひとつの時代を創ってきたのだ。そのキャリアは間違いなく日本のメディアの歴史の中でも燦然たる煌きを放っているけれど、その根本は“面白いことをやりたい&#8221;という、ただそれだけだ。雑誌の世界では海外取材による記事作りがまだ一般的ではなかった1960年代から、精力的に世界中を廻り、伝え続けてきた彼は、現在も編集者として“面白いこと&#8221;を探求し続けている。そんな「海外取材」を開拓してきたパイオニアに、旅とメディアとの関わりについて語ってもらった。 　 とにかく外国に行きたいなって思ってて ——石川さんは小さい頃、どんな子供だったんでしょうか。 石川：僕は1941年生まれなんだけど、1941年って、まさに太平洋戦争が始まった年なんだ。それで戦争が終わった時が5歳ぐらいでしょ。だから物心ついた時は戦後のゴタゴタの真っ只中だったんだ。今から考えるとすごく面白い時代に生まれたなあと思う。その時代ってそれまでないものがどっと日本に入ってきたんだ。駐留軍が日本に上陸してきて、彼らと一緒にアメリカの大衆文化が流れ込んできた。ラジオの番組だったり、雑誌だったり、レコードだったり。 ——刺激的な時代だったでしょうね。 石川：僕には姉が多くて、彼女たちがアメリカの雑誌を定期購読していた。だから僕が小学校の時には家に大判の『LlFE』誌が山積みになっていた。僕もそういうのをチラチラ眺めていて、その辺からプリント・メディアが好きになったのかもね。ラジオではFENが元気で、アメリカのポピュラー・ミュージックがしょっちゅう流れてきたから、小学校の高学年ぐらいからはそういう音楽をいつも聴いていた。だから僕は物心ついた時からアメリカ文化にどっぷり漬かっていたんだ。今の仕事の原点ってその辺にあるんじゃないかなあって時々思う。そういう時代って、今からすると想像しにくいでしょう。 ——そうですね、今は卒業旅行に海外へ行くのが当たり前だったりしますし…。 石川：僕たちの時代は、1964年に海外旅行が自由化されるまで普通の人が観光旅行で外国に行くことができなかったんだよね。外国に興味を持つと言っても、映画を見るとか、ラジオを聞くとか、外国の雑誌を古本屋さんで買うとか、そのくらいのことしかできなかった。だから全然違う世界が海の向こうにはあるんだなって、僕は気になって気になって仕方なくてね。 ——初めて海外に行ったのは？ 石川：23歳の時。海外旅行が自由化されたのは、ちょうど僕が学校を卒業した年だったんです。 ——どういうきっかけで海外に行かれたんですか？ 石川：当時僕はとにかく何らかの方法で外国に行きたいなって思ってた。卒業する年に海外旅行が自由化されるなんて、これは何かの偶然だろう！と。だから僕は何のためらいもなく旅行業界に飛び込んだ。それが一番手っ取り早く外国に行く方法かなって思ってね。そこは海外旅行専門の小さな旅行会社で、案の定すぐに外国に行けた。一番最初は香港と台湾とタイに行った。 ——初めて外国に行ってみて、どうでした？ 石川：本当はアメリカに行きたかったんだ(笑) 。香港とか台湾とかタイとか、実はあんまり興味がなかった。もちろん行って珍しいものもたくさん見たけど、アジアだったから、あんまり外国という気はしなかった。しかも旅行会社での仕事の旅って、例えば偉い先生なんかと一緒に行ったりするでしょ、全然“自分の旅&#8221;じゃないんだ。 ——そういう意味で初めて“自分の旅&#8221;ができたのは？ 石川：それはやっぱり雑誌の編集者になってから。僕は旅行会社から出版社というまったく違う業界に転職したんだよね。なんで？って不思議に思うこともあるんだけど。ただ結果として旅行会社にいた2年間は全然無駄にならなかった。僕は26歳の時、平凡出版(現マガジンハウス)の『平凡パンチ』っていう編集部に入って、編集者としてゼ口からスター卜したんだ。で、その時の編集長がとても面白いことを言い出した。「これからは『平凡パンチ』も独自で海外取材をしよう」って。それまでの雑誌って海外の記事は通信社から写真やテキス卜を買うのが普通だったんです。それで編集長が周りを見回して、お前は編集者としては素人だけど、外国行ったことがあるだろうって、いきなり海外取材の担当にさせられた。だから「じゃあ、アメリカに行かせて下さい！」って。夢にまで見たアメリカ。それが一番最初の“自分の旅&#8221;だったね。1968年のことです。 　 ハプニングが起こらないとつまらない ——その後色々な雑誌で海外取材されているわけですけど、やっていると時代の変化を肌で感じますよね？ 石川：もちろん。今は雑誌やテレビの海外取材ってどこにでも現地のコーディネーターがいて、行く前に全部お膳立てが済んでいて、行ったらそのとおりに取材するっていうのが当たり前になっている。だけど僕らが海外取材に行き始めた時は、コーディネーターなんて世界中どこにもいなかった。何が面白いかも全て自分で探して、取材をするための交渉もインタビューも自分でやらなきゃいけなかった。最初のアメリカは僕とイラストレーターと二人で行ったんだけど、たった二人で、全部機材を持って、アメリカ中1ヶ月ぐらい取材してまわったんだ。それはもう苦労の連続だったけど、実に面白かったね。僕の海外取材の原点だし、もしかすると今みたいに一般雑誌が海外取材をするきっかけだったかもしれない。 ——苦労したこともたくさんありますよね？ 石川：それはもう、たくさんある。まだデビューしたばかりの加納典明と一緒にニューヨークに行ったんだけど、彼がどうしても黒人の男女のカップルを撮りたいって言うんだ。しかもそのカップルが愛し合っているところをって。困ったこと言う奴だなって思ったんだけど(笑)、同時に面白いなと思って。それで黒人街、ハーレムに行って、モデルになってくれる人を探すところから始めたんです。当時は犯罪も多くて危険な街だったけど、そこを歩き回りながら「誰かかっこいいカップルいませんか？」って、色々な人に聞いて探しまわったんだよ。今考えるとよくそんなことできたなって思うよ(笑)。でも結果としてはその日のうちにモデルになってくれるカップルを探せて、加納典明は一生懸命写真を撮った。黒人の、本当に綺麗なカップルだったんだけど、写真としてはやっぱりすごく際どかったんだね。それがね、ボツにされたんだ。ほとんど編集長とつかみ合いのケンカになりそうなぐらいやりあったんだけど。写真の質はすごくいいし、いい仕事ができたなって思ってたから、一言でボツにされたのが、悔しくってね。そういう思い出は本当にいくらでもある。 ——取材のテーマっていうのは、どういうふうに見つけているんですか？ 石川：行く前からテーマを決めて乗り込んで行くこともあるけど、とにかく場所だけ決めて、っていうこともあったなあ。日本でテーマを探すってあまり意味がないと思うんだ。結局現地で探したほうがニュースとしてはホットだし、今知らせることって現地じゃなきゃ見つからない。だからあんまりテーマを決めていかない方が面白い。逆に言うと、ハプニングが起こらないとつまらない。 　 テレビに出ながら雑誌のことばっかり考えてた ——当時から考えると今はテレビと雑誌のメディアの違いってすごくありますよね？ 石川：そう、テレビと雑誌って全然違う。僕が、最初に雑誌の編集者になった時は、とにかく雑誌っていうのは100万部以上売れなきゃいけないっていうメディアだったの。部数が多いことイコール正しい雑誌、成功している雑誌。でも時代とともに雑誌も変質せざるをえなかった。それぞれの雑誌がターゲットを決めて読者をつかまえるっていう方法に。それはどうしてかっていうとテレビの存在があった。最初、僕らはテレビを大したメディアだと思わなかったんだ。だけど、ある時から「テレビ、っていうのはヤバイぞ」と感じるようになった。映像も音声もどんどん良くなる、そしてものすごい普及率だったから。雑誌編集者みんなが何とか対抗しなくちゃって思ってたよ。だってテレビと雑誌がマスを対象に同じことをやっていたんだから。テレビにはいまだに“視聴率&#8221;っていう金科玉条があるでしょ。雑誌にも発行部数があるけど、それだけが雑誌の価値じゃないよっていうところに持っていかないと、テレビに負けるなっていう予感があった。要はテレビができないことを雑誌がやろうって、みんなそう考えた。だから雑誌って読者がどんどん細分化されていったよね。今なんて女性誌のターゲッ卜なんて5歳刻みであったりする。 ——ただ、石川さんご自身もテレビ「トゥナイト2」にレギュラー出演されていましたよね。 石川：そうなんだよね。それだけが僕の人生で予想もしてなかったこと(笑) 。8年間もレギュラーで出ちゃうなんて。僕は会社を辞めたのが51歳で、周りからは「バカなことをするな」って言われたんだ。常識的に考えると辞めない年代で辞めたんだけど、でも自分が編集者として一人でどのぐらいできるか試したかった。そしたらなんとテレビから声がかかって… 。最初は企画を担当してくれっていう話だと思ってたの。でも、実際話を聞いたら出演交渉だった。参ったなぁって、最初はお断りした。僕にはやりたいことが他にあるし、できるわけないじゃないって。でも周りが面白がっちゃって。50過ぎて会社辞めて飯食えるかわかんないのに、いい話じゃない？なんて、無責任に僕に出演を勧めるわけ(笑)。じゃあ1年ぐらいやってみるかって引き受けたのが運のつき、その後8年もやっちゃうなんて。だからあれで人生だいぶ狂いましたよ(笑) 。 ——出演していて、どんなところが面白かったんですか？ 石川：僕、テレビに出ながら雑誌のことばっかり考えてた。「テレビの弱みはどこにあるんだろう」ってそればっかり探してて。内部にいるとそれはすごくよくわかったし、勉強になった。テレビにはできなくて雑誌だからできることって山ほどあるなって。もちろんその逆もあるけどね。だから今後雑誌がどの方向に行くべきかなんて、頭の中に色々ある(笑)。 ——石川さんがそこまで思う雑誌の面白さって？ 石川：それはテレビと比べてっていう言い方しかできないけど、テレビは成功すればするほど制約が多くなるんですよ。やっぱりスポンサーがしっかりサポートしなければいけない、そのためには視聴率をとらなければいけないって。例えば本当は必要のない人気タレン卜さんを出さなきゃいけないとか。雑誌にはそれは必要ないと思う。雑誌のほうがもっとピュアに作れるところがあると思う。もちろん発行部数って大切だけど、今は昔ほど発行部数を求められてないし、少部数でも評価される。それよりもいかに読者、それも良質な読者を抱えているかっていうところが大切だったりする。量より質、それが、雑誌です。 　 &#8230; <a href="http://www.papersky.jp/2011/09/19/jiro-ishikawa/"><br />続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>石川次郎さんと話していると“面白い&#8221;という単語が何度も出てくる。『POPEYE』の創刊に加わり、『BRUTUS』『Tarzan』『GULLlVER』など数多くの雑誌の編集長を務めた人。『POPEYE』『BRUTUS』は高度成長期における若者文化の担い手としての雑誌の地位を確立し、また『Tarzan』では専門性に特化した雑誌作りのお手本を示した。そう、彼の手がけた雑誌はすべて時代のニーズを捉え、ひとつの時代を創ってきたのだ。そのキャリアは間違いなく日本のメディアの歴史の中でも燦然たる煌きを放っているけれど、その根本は“面白いことをやりたい&#8221;という、ただそれだけだ。雑誌の世界では海外取材による記事作りがまだ一般的ではなかった1960年代から、精力的に世界中を廻り、伝え続けてきた彼は、現在も編集者として“面白いこと&#8221;を探求し続けている。そんな「海外取材」を開拓してきたパイオニアに、旅とメディアとの関わりについて語ってもらった<span id="more-6525"></span>。<br />
　</p>
<p><strong>とにかく外国に行きたいなって思ってて</strong></p>
<p>——石川さんは小さい頃、どんな子供だったんでしょうか。</p>
<p>石川：僕は1941年生まれなんだけど、1941年って、まさに太平洋戦争が始まった年なんだ。それで戦争が終わった時が5歳ぐらいでしょ。だから物心ついた時は戦後のゴタゴタの真っ只中だったんだ。今から考えるとすごく面白い時代に生まれたなあと思う。その時代ってそれまでないものがどっと日本に入ってきたんだ。駐留軍が日本に上陸してきて、彼らと一緒にアメリカの大衆文化が流れ込んできた。ラジオの番組だったり、雑誌だったり、レコードだったり。</p>
<p>——刺激的な時代だったでしょうね。</p>
<p>石川：僕には姉が多くて、彼女たちがアメリカの雑誌を定期購読していた。だから僕が小学校の時には家に大判の『LlFE』誌が山積みになっていた。僕もそういうのをチラチラ眺めていて、その辺からプリント・メディアが好きになったのかもね。ラジオではFENが元気で、アメリカのポピュラー・ミュージックがしょっちゅう流れてきたから、小学校の高学年ぐらいからはそういう音楽をいつも聴いていた。だから僕は物心ついた時からアメリカ文化にどっぷり漬かっていたんだ。今の仕事の原点ってその辺にあるんじゃないかなあって時々思う。そういう時代って、今からすると想像しにくいでしょう。</p>
<p>——そうですね、今は卒業旅行に海外へ行くのが当たり前だったりしますし…。</p>
<p>石川：僕たちの時代は、1964年に海外旅行が自由化されるまで普通の人が観光旅行で外国に行くことができなかったんだよね。外国に興味を持つと言っても、映画を見るとか、ラジオを聞くとか、外国の雑誌を古本屋さんで買うとか、そのくらいのことしかできなかった。だから全然違う世界が海の向こうにはあるんだなって、僕は気になって気になって仕方なくてね。</p>
<p>——初めて海外に行ったのは？</p>
<p>石川：23歳の時。海外旅行が自由化されたのは、ちょうど僕が学校を卒業した年だったんです。</p>
<p>——どういうきっかけで海外に行かれたんですか？</p>
<p>石川：当時僕はとにかく何らかの方法で外国に行きたいなって思ってた。卒業する年に海外旅行が自由化されるなんて、これは何かの偶然だろう！と。だから僕は何のためらいもなく旅行業界に飛び込んだ。それが一番手っ取り早く外国に行く方法かなって思ってね。そこは海外旅行専門の小さな旅行会社で、案の定すぐに外国に行けた。一番最初は香港と台湾とタイに行った。</p>
<p>——初めて外国に行ってみて、どうでした？</p>
<p>石川：本当はアメリカに行きたかったんだ(笑) 。香港とか台湾とかタイとか、実はあんまり興味がなかった。もちろん行って珍しいものもたくさん見たけど、アジアだったから、あんまり外国という気はしなかった。しかも旅行会社での仕事の旅って、例えば偉い先生なんかと一緒に行ったりするでしょ、全然“自分の旅&#8221;じゃないんだ。</p>
<p>——そういう意味で初めて“自分の旅&#8221;ができたのは？</p>
<p>石川：それはやっぱり雑誌の編集者になってから。僕は旅行会社から出版社というまったく違う業界に転職したんだよね。なんで？って不思議に思うこともあるんだけど。ただ結果として旅行会社にいた2年間は全然無駄にならなかった。僕は26歳の時、平凡出版(現マガジンハウス)の『平凡パンチ』っていう編集部に入って、編集者としてゼ口からスター卜したんだ。で、その時の編集長がとても面白いことを言い出した。「これからは『平凡パンチ』も独自で海外取材をしよう」って。それまでの雑誌って海外の記事は通信社から写真やテキス卜を買うのが普通だったんです。それで編集長が周りを見回して、お前は編集者としては素人だけど、外国行ったことがあるだろうって、いきなり海外取材の担当にさせられた。だから「じゃあ、アメリカに行かせて下さい！」って。夢にまで見たアメリカ。それが一番最初の“自分の旅&#8221;だったね。1968年のことです。</p>
<p>　<br />
<strong>ハプニングが起こらないとつまらない</strong></p>
<p>——その後色々な雑誌で海外取材されているわけですけど、やっていると時代の変化を肌で感じますよね？</p>
<p>石川：もちろん。今は雑誌やテレビの海外取材ってどこにでも現地のコーディネーターがいて、行く前に全部お膳立てが済んでいて、行ったらそのとおりに取材するっていうのが当たり前になっている。だけど僕らが海外取材に行き始めた時は、コーディネーターなんて世界中どこにもいなかった。何が面白いかも全て自分で探して、取材をするための交渉もインタビューも自分でやらなきゃいけなかった。最初のアメリカは僕とイラストレーターと二人で行ったんだけど、たった二人で、全部機材を持って、アメリカ中1ヶ月ぐらい取材してまわったんだ。それはもう苦労の連続だったけど、実に面白かったね。僕の海外取材の原点だし、もしかすると今みたいに一般雑誌が海外取材をするきっかけだったかもしれない。</p>
<p>——苦労したこともたくさんありますよね？</p>
<p>石川：それはもう、たくさんある。まだデビューしたばかりの加納典明と一緒にニューヨークに行ったんだけど、彼がどうしても黒人の男女のカップルを撮りたいって言うんだ。しかもそのカップルが愛し合っているところをって。困ったこと言う奴だなって思ったんだけど(笑)、同時に面白いなと思って。それで黒人街、ハーレムに行って、モデルになってくれる人を探すところから始めたんです。当時は犯罪も多くて危険な街だったけど、そこを歩き回りながら「誰かかっこいいカップルいませんか？」って、色々な人に聞いて探しまわったんだよ。今考えるとよくそんなことできたなって思うよ(笑)。でも結果としてはその日のうちにモデルになってくれるカップルを探せて、加納典明は一生懸命写真を撮った。黒人の、本当に綺麗なカップルだったんだけど、写真としてはやっぱりすごく際どかったんだね。それがね、ボツにされたんだ。ほとんど編集長とつかみ合いのケンカになりそうなぐらいやりあったんだけど。写真の質はすごくいいし、いい仕事ができたなって思ってたから、一言でボツにされたのが、悔しくってね。そういう思い出は本当にいくらでもある。</p>
<p>——取材のテーマっていうのは、どういうふうに見つけているんですか？</p>
<p>石川：行く前からテーマを決めて乗り込んで行くこともあるけど、とにかく場所だけ決めて、っていうこともあったなあ。日本でテーマを探すってあまり意味がないと思うんだ。結局現地で探したほうがニュースとしてはホットだし、今知らせることって現地じゃなきゃ見つからない。だからあんまりテーマを決めていかない方が面白い。逆に言うと、ハプニングが起こらないとつまらない。</p>
<p>　<br />
<strong>テレビに出ながら雑誌のことばっかり考えてた</strong></p>
<p>——当時から考えると今はテレビと雑誌のメディアの違いってすごくありますよね？</p>
<p>石川：そう、テレビと雑誌って全然違う。僕が、最初に雑誌の編集者になった時は、とにかく雑誌っていうのは100万部以上売れなきゃいけないっていうメディアだったの。部数が多いことイコール正しい雑誌、成功している雑誌。でも時代とともに雑誌も変質せざるをえなかった。それぞれの雑誌がターゲットを決めて読者をつかまえるっていう方法に。それはどうしてかっていうとテレビの存在があった。最初、僕らはテレビを大したメディアだと思わなかったんだ。だけど、ある時から「テレビ、っていうのはヤバイぞ」と感じるようになった。映像も音声もどんどん良くなる、そしてものすごい普及率だったから。雑誌編集者みんなが何とか対抗しなくちゃって思ってたよ。だってテレビと雑誌がマスを対象に同じことをやっていたんだから。テレビにはいまだに“視聴率&#8221;っていう金科玉条があるでしょ。雑誌にも発行部数があるけど、それだけが雑誌の価値じゃないよっていうところに持っていかないと、テレビに負けるなっていう予感があった。要はテレビができないことを雑誌がやろうって、みんなそう考えた。だから雑誌って読者がどんどん細分化されていったよね。今なんて女性誌のターゲッ卜なんて5歳刻みであったりする。</p>
<p>——ただ、石川さんご自身もテレビ「トゥナイト2」にレギュラー出演されていましたよね。</p>
<p>石川：そうなんだよね。それだけが僕の人生で予想もしてなかったこと(笑) 。8年間もレギュラーで出ちゃうなんて。僕は会社を辞めたのが51歳で、周りからは「バカなことをするな」って言われたんだ。常識的に考えると辞めない年代で辞めたんだけど、でも自分が編集者として一人でどのぐらいできるか試したかった。そしたらなんとテレビから声がかかって… 。最初は企画を担当してくれっていう話だと思ってたの。でも、実際話を聞いたら出演交渉だった。参ったなぁって、最初はお断りした。僕にはやりたいことが他にあるし、できるわけないじゃないって。でも周りが面白がっちゃって。50過ぎて会社辞めて飯食えるかわかんないのに、いい話じゃない？なんて、無責任に僕に出演を勧めるわけ(笑)。じゃあ1年ぐらいやってみるかって引き受けたのが運のつき、その後8年もやっちゃうなんて。だからあれで人生だいぶ狂いましたよ(笑) 。</p>
<p>——出演していて、どんなところが面白かったんですか？</p>
<p>石川：僕、テレビに出ながら雑誌のことばっかり考えてた。「テレビの弱みはどこにあるんだろう」ってそればっかり探してて。内部にいるとそれはすごくよくわかったし、勉強になった。テレビにはできなくて雑誌だからできることって山ほどあるなって。もちろんその逆もあるけどね。だから今後雑誌がどの方向に行くべきかなんて、頭の中に色々ある(笑)。</p>
<p>——石川さんがそこまで思う雑誌の面白さって？</p>
<p>石川：それはテレビと比べてっていう言い方しかできないけど、テレビは成功すればするほど制約が多くなるんですよ。やっぱりスポンサーがしっかりサポートしなければいけない、そのためには視聴率をとらなければいけないって。例えば本当は必要のない人気タレン卜さんを出さなきゃいけないとか。雑誌にはそれは必要ないと思う。雑誌のほうがもっとピュアに作れるところがあると思う。もちろん発行部数って大切だけど、今は昔ほど発行部数を求められてないし、少部数でも評価される。それよりもいかに読者、それも良質な読者を抱えているかっていうところが大切だったりする。量より質、それが、雑誌です。</p>
<p>　<br />
「それが面白いかどうか」っていうところが大事</p>
<p>——石川さんが出演するBS朝日の番組もスター卜しますね。</p>
<p>石川：僕は今、BS放送が面白くて仕方ないんだ。地上波で8年もお世話になりながらこんなことを言うのもおかしいけど(笑)。BSってまだまだ地味な存在で、どこの局も経営的には苦労してる。でも僕の友達たちの中にはBSのほうが面白いよって言う人がけっこう増えた。まだまだ実験的なことができるし、ある意味すごく雑誌的なんだよね。一つのテーマを深く追求できるっていうところが、ね。</p>
<p>——番組的にはどういう内容ですか？</p>
<p>石川：「アジアだけの旅行番組作りたい」って言ったんだ。ただの物見遊山だけじゃなくて、一つのテーマにこだわった番組をやりたいの。この前はベトナムに行ったんだけど、そこで何をしたかっていうと、「ヌックマム」ってあるでしょ。それだけを深く深く取材しました。</p>
<p>——すごくディープですね。</p>
<p>石川：でしょう。それだけで番組を作るなんて、地上波ではできないんだ。もちろん地上波で面白いテーマでやっている番組もあるんだけど、たいていは若い女性タレン卜が出てくる。そういう女性たちがキャーキャ一言ってるのって、なんだか抵抗があるんだよね。ただ、BSはそんなにタレン卜さんを使うお金がないから、僕たちのようなおじさんにもチャンスがあるというわけ(笑) 。</p>
<p>——石川さんは本当に色々なことをされていますが、そのエネルギーはどこから出てくるんでしょう？</p>
<p>石川：やってること全部が面白いことだから。引き受けている仕事は、自分で「できるな」って感じないと引き受けないし、「それが面白いかどうか」っていうところが二番目の物指し。だからもし疲れても、それは自分が面白がって疲れてるんだから仕方ない、と。BSの旅番組もかなり強硬スケジュールだったけど、どんどん元気になっていったね(笑) 。</p>
<p>——根本的に旅が好きなんでしょうね。</p>
<p>石川：それもあるんだろうけど、僕はどうやら“知らせたい&#8221;っていう本能を持っているみたいなんだ。自分が面白いと思ったことは何らかの方法で人に伝えたいんだ。時には友達を連れて行って、「どうだ、これ面白いだろう」って見せることもある。それで友達が面白がってくれたらそれだけで納得するっていう(笑) 。</p>
<p>——次に行ってみたい国、やってみたいこともたくさんあるんじゃないですか？</p>
<p>石川：それはもうたくさんある。ここ10年アジアにハマっていて、アジアが面白くて仕方ない。それぞれの国が、すごい勢いで変わっているんだよね。それを目撃しておきたいと思うようになった。アジアなら週末でも行けるでしょう。だから「トゥナイト2」をやりながらも、年間70日間ぐらいアジアに行っていた。でもまだまだ終わってないんだ。気が遠くなるよ(笑) 。これからインドも行きたいし、ミャンマーやカンボジアも見たいし、中国にももっと行きたいと思ってる。</p>
<p>　<br />
<strong>ネットワークを使いたかった</strong></p>
<p>——実際『GULLlVER』という旅行雑誌も作っていましたよね。</p>
<p>石川：うん、僕は日本の旅雑誌って、どうしてインターナショナルに通用するものができないのかなっていつも思ってるんだ。欧米にはいわゆるトラベル・ライターとか、トラベル・フォトグラファーがたくさんいる。ところが日本ではあんまり仕事の場がないんだよね。それはメディアがないから。で、日本にも必要でしょうということで1989年に『GULLlVER』をやらせてもらったの。</p>
<p>——一般的な観光地だけでなくディープなところも紹介されていたし、その紹介の仕方も面白かったと思います。</p>
<p>石川：『GULLlVER』に関しては、毎回、日本から取材チームを出すっていうことを考えてなかったの。雑誌を作る前に僕はロンドンとパリとニューヨークとロサンジェルスに行って、ホテルに3 日間ぐらい缶詰になって、そこにトラベル・ジャーナリストを呼んだんだ。そしたらライタ一、写真家、イラストレーター…本当に色々な人が売り込みに来るわけ。ちゃんとそういうトラベル・ジャーナリズムの世界があるんだ。僕はその人たちとのネットワークを使って『GULLlVER』を作りたかった。ただ、15年前は早過ぎたね。でも、今はもういけると思う。そういう意味では僕は『PAPERSKY』には非常に期待してますよ。今までの旅行雑誌にない何かがあるし、僕なんかが発想できないことをやっているっていう気がする。パッと見てすぐに、「あ、これは日本人だけで作っている雑誌じゃないな」と思ったしね。</p>
<p>　<br />
石川次郎 ｜エディトリアル・ディレクター<br />
1941年東京生まれ。1964年に早稲田大学卒業後、海外旅行専門のトラベル・エージェントに勤務。1967年、平凡出版株式会社に入社。『平凡パンチ』誌で編集者生活のスター卜を切る。『Made in USA』、『SKI LIFE』など実験的雑誌づくりを経て、1976年の『POPEYE』創刊に加わる。引き続き『BRUTUS』『Tarzan』『GULLlVER』などを創刊。各誌の編集長を歴任する。1993年同社退社。同年4月、企画・編集プロタフションJI inc (株式会社ジェイ・アイ) を設立。メンバーシップ・マガジン『SEVEN SEAS』(アルク刊)、『Travel Style』(世界文化社刊)などの編集長を務める。また、六本木ヒルズ内にある「TSUTAYA TOKYO ROPPONGI」や川崎の「LA CITTA DELLA」などの商業施設のプロデュースも手掛ける。企画にも携わっているBS朝日の番組「男たちの食宴」「亜細亜見聞録」に出演。</p>
<p>　<br />
このインタビューは<a href="http://www.fujisan.co.jp/Product/1281680322/b/14840/ap-kneehighmedia" target="_blank">PAPERSKY No.14</a>（2006年7月）に収録されています。<br />
インタビュー&#038;構成 松岡絵里<br />
Interview &#038; Text: Eri Matsuoka</p>
<p><img src="http://www.papersky.jp/wp-content/uploads/2010/11/ishikawajiro.jpg" alt="" title="ishikawajiro" width="528" height="350" class="alignleft size-full wp-image-6527" /></p>
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		</item>
		<item>
		<title>建築、旅、日本の未来｜建築家・西沢立衛インタビュー</title>
		<link>http://www.papersky.jp/2011/08/08/ryue-nishizawa/</link>
		<comments>http://www.papersky.jp/2011/08/08/ryue-nishizawa/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 08 Aug 2011 00:00:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Vicente Gutierrez</dc:creator>
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		<description><![CDATA[西沢立衛は、現代の日本の建築界の顔といえる建築家のひとりである。2010年には、建築家ユニットSANAA として、「建築界のノーベル賞」と呼ばれるプリッカー賞を受賞した。今回、PAPERSKY は、世界各地のプロジェクトを手がける西沢氏を訪ね、建築や旅、日本の未来といったテーマについて話を聞いた。 一一ここ数年は海外のプロジェクトも多数手がけられていますが、そのことは建築の考え方に、なにかしらの変化をもたらしましたか? はい、確実に。海外に出るまでは、まわりにいるのは日本人ばかりでしたから、日本はこうだとかああだとか、とくに考えたことはありませんでした。でも海外に行くと、みんながお前は日本人だ、日本的だ、とさかんに言うわけです。最初はピンと来なかったのですが、何度も言われるうちに、徐々に日本ということを考えるようになりました。ヨーロッパの都市は美しく、素晴らしいと思います。家、ホテル、公園、川、街など、いたるところに気持ちよく暮らせる雰囲気、環境があります。ヨーロッパは長い時間をかけて、人聞が生きるための環境をつくってきた。それは本当に素晴らしいことだと思います。 ヨーロッパの建築や都市には、非常に影響を受けました。ヨーロッパの建築は、荒削りというか、足し算的というか、野蛮だと思います。それは日本では見たことがないものでした。彼らは、日本の建築物のように精巧ではありませんが、ヨーロッパ建築の野蛮さ、乱暴さというものには、人間のダイナミックな生というものを感じます。日本の建築物からは、そういうエネルギーをあまり感じません。ヨーロッパに比べると、日本の建築物はちょっと機械的で退屈といえるかもしれませんね。 一一これまでに訪れた場所で、西沢さんに影響をもたらした都市や場所はありますか? いちばん印象に残っているのはローマです。初めて訪れたのは1988年、22歳のときでしたが、本当に驚いたし、怖いとも思いました。過去の世紀の建築物を壊して、そのがれきの上に新しい建築を建てる、殺人の歴史を強く感じました。地下深くから遺跡が出てくるのも恐ろしかった。数世紀以上離れた建築群が互いにくっついて建つ風景も印象的で、すっかり魅了されました。僕はもともと都市というものが好きで、ローマに限らず、イスタンブール、パリ、ハバナ、パンコッ夕、バルセロナ、リオデジャネイロ、ニューヨーク、好きな都市はいっぱいあります。都市というのは、本当に長いものです。その歴史は、国家の寿命よりも長い。国が滅びても都市は残るし、名前が変わっても都市は残る。イスタンブールのような都市は、名前を二度も三度も変えながら、いまも存続しています。都市は、人類がつくったもののなかでも、もっとも長いものの一つではないでしょうか。 一一西沢さんが海外で見た建築的なもので、東京や日本に反映したいものはありますか? ヨーロッパの建築は、重々しく獰猛なところに魅力があり、それは日本の建築にはないものです。しかしそういうことは文化的なもので、地域的に限定されることです。その地域を超えて外には持ち出せないもので、輸入するのは不可能だと思います。無理に真似ても、失敗するだけだと思います。東京の建築物は、良くも悪くも非常に軽いと思います。使用している素材だけでなく、精神も軽いし、つくりかたも軽いと思います。台風、火災、地震のような災害が日本の建築文化に影響を与え、軽くて透過性の高い建築物が好まれるようになったのだと思います。そういう日本人が、ヨーロッパの重厚な建築を真似したら、悲惨なことになると思います。 一一西沢さんが好きな場所はどこですか? たくさんありすぎるので、難しいですね… 。日本はやはり好きですね。蕎麦屋がありますからね(笑) 。日本以外のところに僕はそんなに長く住めないと思います。蕎麦屋がないですし。パリは奇蹟の都市だと思います。街そのものが、奇跡の記念碑です。あれだけの大きな規模のものが、一度も破壊されずに残り、かつまだ使われているというのは、まさに奇蹟です。ニューヨークも僕は好きです。やかましい街で、誰かがいつも叫んだり怒ったりしていて、世界でもっともクレージーな都市のひとつだと思います(笑)。京都は美しく、近代化によってかなりの部分が破壊されてしまいましたが、それでもなお、いまでも美しいお寺があちこにあり、そうしたお寺にはたいてい苔むした庭があり、たいへん美しいと思います。日本では、富士山や瀬戸内海の風景も好きです。何年か前にアイスランドに行きましたが、そこで見た風景は美しく、まるで太古の昔のような、人聞が住んだことのないような場所でした。アマゾンも死海も、たいへん美しく、魅力的でした。 一一次はどこに行きたいですか? インドに行ってみたいです。それからアフリカ。アルジェリアには行きましたが、北のサハラ砂漠のほうだったので、今度は中央アフリカより南に行ってみたいです。旅に出るのはすごく新鮮で、大自然や知らない街などに行くと、新鮮ですし、東京に戻ったとき、見慣れた街が違って見えます。 一ーものづくりのうえで文化的な感受性をもつことは重要だと思いますが、それは海外の建築プロジェクトに関わる建築家にとって、どんな意味があると思いますか? 　建築家として、その国や地域の文化的な背景を意識することは重要だと思いますか? もちろんです。その土地の文化や歴史を尊重するのは重要なことです。ただ一方、自分がスペイン人やニューヨーカーになれないことははっきりしていて、私には私なりの、日本人としてのやりかたしかできません。外国人でありながらも、外国人なりにその街に興味を持つことはでき、理解したり勉強したりすることはできるので、そういう外国人的なアプローチにはどうしてもなると思います。以前、バレンシアで美術館の建設プロジェクトに携わっていたことがあって、バレンシアの大学で講演をしたときに学生から「なぜ、スペイン風の建築にしないのですか?」と質問されました。でも私が思うには、私はスペイン人じゃないから、見よう見まねでスペイン風の建築をつくっても、質の悪い模造品くらいにしかならないと思うのです。そういう粗悪悪コピーみたいなニセの建築を本物のスペイン建築の隣につくるのは、街にとってかなりよくないことではないかと。 一ー西沢さんの建築に関してですが、たとえば豊島美術館では、現地の文化を考慮しましたか? 豊島は瀬戸内海の島々のなかでは、めずらしく緑豊かな島です。緑が少なく、土がむきだしになった山が多い直島とはずいぶん違います。豊島は山が大きくて、水が集まりやすく、緑が豊かなのです。また、建物のまわりはいわば大自然で、直線というものがなかったので、水滴のような、有機的な形状の建築をつくることを思い立ちました。自由曲線の建築は、有機的な地形とよく合うと思ったのです。 一ーどの時代の建築も、その時代の文化に多大な影響をもたらしてきたといわれますが、いまも建築がこの時代の文化に影響を与えていると思いますか? なにかわかりやすい例がありましたら教えてください。 建築はいまも、相当いろいろなことを人々に対して言うし、要求していると思います。たとえば二畳の大きさしかない部屋は、100人で会議できないのです。そういうことはするべきでない、と二畳間は言っている。逆に、何百㎡もの巨大な部屋は、大人数が集まって、議論をすることができる、みんなで一つの事件を共有し、目撃することができる。何百㎡もの部屋があると、民主主義みたいなことができる。建築はしばしば、こういうふうに住むべきだ、こういうふうに使うべきだ、みたいなことを言うのです。それは昔もいまもそうだと思いますね。 一一日本はいまとても厳しい状況にあり、誰も未来を予測できないと思いますが、西沢さんの考える10年後、20年後、50年後の未来で、日本はどのようになっていると思いますか?　都市や街はどのように変化すると思いますか?　また、西沢建築事務所はその時代の変化にどのように関わっていくと思われますか? 日本人が自然とともに暮らすことの大切さを思い出して、人聞が完全に支配できない場所に住むことも受け入れるようになっていってほしいと思います。第２次世界大戦後、日本人は東京のような非常に人工的で工業的な世界をつくってきました。電車はかならず時間どおりに２分間隔でやってくるし、いつでも欲しいものが買えます。東京はまるで機械のような精密さ、正確さを実現しましたが、これからはそれも変わりはじめ、もうちょっと自然を受け入れるようになるのでは、と思います。 もちろん、日本人は昔から自然を大切にしてきましたが、やはり20世紀は、機械化の時代だったと思います。これからは、日本人がかつて四季の移り変わりを受け入れ愛したように、自然を受け入れる時代になっていってほしいですね。 私は、新しい時代の建築をつくりたい、と思っています。どの時代も自分の時代の建築というものをつくってきました。私たちの時代もきっと同じで、自分たちの時代や社会がもっている価値観や精神を感じさせる建築を、私たちはきっとつくると思います。 　 西沢立衛（にしざわりゅうえ）　Ryue Nishizawa 1966年東京都生まれ。横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA 教授。横浜国立大学大学院修士課程修了、妹島和世建築設計事務所入所。95年妹島和世氏とSANAA 設立。97年西沢立衛建築設計事務所設立。98年と06年に日本建築学会賞作品賞、10年にプリッカー賞（いずれも妹島氏との迎名）を受賞。主な作品に「金沢21 世紀美術館」、「十和田市現代美術館」などがある。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>西沢立衛は、現代の日本の建築界の顔といえる建築家のひとりである。2010年には、建築家ユニットSANAA として、「建築界のノーベル賞」と呼ばれるプリッカー賞を受賞した。今回、PAPERSKY は、世界各地のプロジェクトを手がける西沢氏を訪ね、建築や旅、日本の未来といったテーマについて話を聞いた。<br />
一一ここ数年は海外のプロジェクトも多数手がけられていますが、そのことは建築の考え方に、なにかしらの変化をもたらしましたか?<span id="more-9121"></span></p>
<p>はい、確実に。海外に出るまでは、まわりにいるのは日本人ばかりでしたから、日本はこうだとかああだとか、とくに考えたことはありませんでした。でも海外に行くと、みんながお前は日本人だ、日本的だ、とさかんに言うわけです。最初はピンと来なかったのですが、何度も言われるうちに、徐々に日本ということを考えるようになりました。ヨーロッパの都市は美しく、素晴らしいと思います。家、ホテル、公園、川、街など、いたるところに気持ちよく暮らせる雰囲気、環境があります。ヨーロッパは長い時間をかけて、人聞が生きるための環境をつくってきた。それは本当に素晴らしいことだと思います。</p>
<p>ヨーロッパの建築や都市には、非常に影響を受けました。ヨーロッパの建築は、荒削りというか、足し算的というか、野蛮だと思います。それは日本では見たことがないものでした。彼らは、日本の建築物のように精巧ではありませんが、ヨーロッパ建築の野蛮さ、乱暴さというものには、人間のダイナミックな生というものを感じます。日本の建築物からは、そういうエネルギーをあまり感じません。ヨーロッパに比べると、日本の建築物はちょっと機械的で退屈といえるかもしれませんね。</p>
<p>一一これまでに訪れた場所で、西沢さんに影響をもたらした都市や場所はありますか?</p>
<p>いちばん印象に残っているのはローマです。初めて訪れたのは1988年、22歳のときでしたが、本当に驚いたし、怖いとも思いました。過去の世紀の建築物を壊して、そのがれきの上に新しい建築を建てる、殺人の歴史を強く感じました。地下深くから遺跡が出てくるのも恐ろしかった。数世紀以上離れた建築群が互いにくっついて建つ風景も印象的で、すっかり魅了されました。僕はもともと都市というものが好きで、ローマに限らず、イスタンブール、パリ、ハバナ、パンコッ夕、バルセロナ、リオデジャネイロ、ニューヨーク、好きな都市はいっぱいあります。都市というのは、本当に長いものです。その歴史は、国家の寿命よりも長い。国が滅びても都市は残るし、名前が変わっても都市は残る。イスタンブールのような都市は、名前を二度も三度も変えながら、いまも存続しています。都市は、人類がつくったもののなかでも、もっとも長いものの一つではないでしょうか。</p>
<p>一一西沢さんが海外で見た建築的なもので、東京や日本に反映したいものはありますか?</p>
<p>ヨーロッパの建築は、重々しく獰猛なところに魅力があり、それは日本の建築にはないものです。しかしそういうことは文化的なもので、地域的に限定されることです。その地域を超えて外には持ち出せないもので、輸入するのは不可能だと思います。無理に真似ても、失敗するだけだと思います。東京の建築物は、良くも悪くも非常に軽いと思います。使用している素材だけでなく、精神も軽いし、つくりかたも軽いと思います。台風、火災、地震のような災害が日本の建築文化に影響を与え、軽くて透過性の高い建築物が好まれるようになったのだと思います。そういう日本人が、ヨーロッパの重厚な建築を真似したら、悲惨なことになると思います。</p>
<p>一一西沢さんが好きな場所はどこですか?</p>
<p>たくさんありすぎるので、難しいですね… 。日本はやはり好きですね。蕎麦屋がありますからね(笑) 。日本以外のところに僕はそんなに長く住めないと思います。蕎麦屋がないですし。パリは奇蹟の都市だと思います。街そのものが、奇跡の記念碑です。あれだけの大きな規模のものが、一度も破壊されずに残り、かつまだ使われているというのは、まさに奇蹟です。ニューヨークも僕は好きです。やかましい街で、誰かがいつも叫んだり怒ったりしていて、世界でもっともクレージーな都市のひとつだと思います(笑)。京都は美しく、近代化によってかなりの部分が破壊されてしまいましたが、それでもなお、いまでも美しいお寺があちこにあり、そうしたお寺にはたいてい苔むした庭があり、たいへん美しいと思います。日本では、富士山や瀬戸内海の風景も好きです。何年か前にアイスランドに行きましたが、そこで見た風景は美しく、まるで太古の昔のような、人聞が住んだことのないような場所でした。アマゾンも死海も、たいへん美しく、魅力的でした。</p>
<p>一一次はどこに行きたいですか?</p>
<p>インドに行ってみたいです。それからアフリカ。アルジェリアには行きましたが、北のサハラ砂漠のほうだったので、今度は中央アフリカより南に行ってみたいです。旅に出るのはすごく新鮮で、大自然や知らない街などに行くと、新鮮ですし、東京に戻ったとき、見慣れた街が違って見えます。</p>
<p>一ーものづくりのうえで文化的な感受性をもつことは重要だと思いますが、それは海外の建築プロジェクトに関わる建築家にとって、どんな意味があると思いますか? 　建築家として、その国や地域の文化的な背景を意識することは重要だと思いますか?</p>
<p>もちろんです。その土地の文化や歴史を尊重するのは重要なことです。ただ一方、自分がスペイン人やニューヨーカーになれないことははっきりしていて、私には私なりの、日本人としてのやりかたしかできません。外国人でありながらも、外国人なりにその街に興味を持つことはでき、理解したり勉強したりすることはできるので、そういう外国人的なアプローチにはどうしてもなると思います。以前、バレンシアで美術館の建設プロジェクトに携わっていたことがあって、バレンシアの大学で講演をしたときに学生から「なぜ、スペイン風の建築にしないのですか?」と質問されました。でも私が思うには、私はスペイン人じゃないから、見よう見まねでスペイン風の建築をつくっても、質の悪い模造品くらいにしかならないと思うのです。そういう粗悪悪コピーみたいなニセの建築を本物のスペイン建築の隣につくるのは、街にとってかなりよくないことではないかと。</p>
<p>一ー西沢さんの建築に関してですが、たとえば豊島美術館では、現地の文化を考慮しましたか?</p>
<p>豊島は瀬戸内海の島々のなかでは、めずらしく緑豊かな島です。緑が少なく、土がむきだしになった山が多い直島とはずいぶん違います。豊島は山が大きくて、水が集まりやすく、緑が豊かなのです。また、建物のまわりはいわば大自然で、直線というものがなかったので、水滴のような、有機的な形状の建築をつくることを思い立ちました。自由曲線の建築は、有機的な地形とよく合うと思ったのです。</p>
<p>一ーどの時代の建築も、その時代の文化に多大な影響をもたらしてきたといわれますが、いまも建築がこの時代の文化に影響を与えていると思いますか?  なにかわかりやすい例がありましたら教えてください。</p>
<p>建築はいまも、相当いろいろなことを人々に対して言うし、要求していると思います。たとえば二畳の大きさしかない部屋は、100人で会議できないのです。そういうことはするべきでない、と二畳間は言っている。逆に、何百㎡もの巨大な部屋は、大人数が集まって、議論をすることができる、みんなで一つの事件を共有し、目撃することができる。何百㎡もの部屋があると、民主主義みたいなことができる。建築はしばしば、こういうふうに住むべきだ、こういうふうに使うべきだ、みたいなことを言うのです。それは昔もいまもそうだと思いますね。</p>
<p>一一日本はいまとても厳しい状況にあり、誰も未来を予測できないと思いますが、西沢さんの考える10年後、20年後、50年後の未来で、日本はどのようになっていると思いますか?　都市や街はどのように変化すると思いますか?　また、西沢建築事務所はその時代の変化にどのように関わっていくと思われますか?</p>
<p>日本人が自然とともに暮らすことの大切さを思い出して、人聞が完全に支配できない場所に住むことも受け入れるようになっていってほしいと思います。第２次世界大戦後、日本人は東京のような非常に人工的で工業的な世界をつくってきました。電車はかならず時間どおりに２分間隔でやってくるし、いつでも欲しいものが買えます。東京はまるで機械のような精密さ、正確さを実現しましたが、これからはそれも変わりはじめ、もうちょっと自然を受け入れるようになるのでは、と思います。</p>
<p>もちろん、日本人は昔から自然を大切にしてきましたが、やはり20世紀は、機械化の時代だったと思います。これからは、日本人がかつて四季の移り変わりを受け入れ愛したように、自然を受け入れる時代になっていってほしいですね。<br />
私は、新しい時代の建築をつくりたい、と思っています。どの時代も自分の時代の建築というものをつくってきました。私たちの時代もきっと同じで、自分たちの時代や社会がもっている価値観や精神を感じさせる建築を、私たちはきっとつくると思います。</p>
<p>　<br />
西沢立衛（にしざわりゅうえ）　Ryue Nishizawa<br />
1966年東京都生まれ。横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA 教授。横浜国立大学大学院修士課程修了、妹島和世建築設計事務所入所。95年妹島和世氏とSANAA 設立。97年西沢立衛建築設計事務所設立。98年と06年に日本建築学会賞作品賞、10年にプリッカー賞（いずれも妹島氏との迎名）を受賞。主な作品に「金沢21 世紀美術館」、「十和田市現代美術館」などがある。</p>
<p><img src="http://www.papersky.jp/wp-content/uploads/2011/07/teshima-museum.jpg" alt="" title="teshima-museum" width="528" height="350" class="alignnone size-full wp-image-9124" /></p>
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		<title>Yae ｜旅から始まる音楽</title>
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		<pubDate>Fri, 22 Jul 2011 00:00:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>PAPERSKY</dc:creator>
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		<description><![CDATA[歌手・加藤登紀子と、農事組合法人「鴨川自然王国」の創立者・故藤本敏夫という両親の元に育ち、つねに“音楽&#8221;と“旅&#8221;がそばにあったというYaeさん。そのせいなのか、自分の直感や好奇心に、羨ましいほど自然体で身をまかすことができる人だ。行きたいところに行き、会いたい人に会う、という旅のスタイルは、彼女のライフスタイルそのものでもある。さらに、「旅をする時は、なるべくなにも決めないようにしている」と言う。まるで、みずからの歌がどこまで国境を越えていけるのか見届けるかのような旅だ。海外アーテイス卜とのコラボレーションをはじめ、キューパやサンフランシスコ、タスマニアなど海外の音楽祭へも意欲的に参加するなど、現在も自由に伸び伸びと活動の場を広げている真っ最中である。さまざまな国で得た音楽、匂い、空気がいかに彼女の中で醸造し、やがて透明な歌声へと昇華していくのか、その道筋がとても知りたくなった。 ポーランドへの旅で音楽観がー変 ——お母さんが歌手ということで、小さい頃から音楽は身近なものだったんですか？ Yae：そうですね。やっぱり、育った環境はちょっと特殊だったと思います。母親のコンサートには3歳くらいの時からよく行っていて、つねにミュージシャンたちの生の音が聞けるような環境にあったし。家でも、いつもいろんな民族音楽が流れていましたね。 ——音楽好きなご一家だったんですね。当時の、音楽にまつわる印象的な思い出ってありますか？ Yae：昔、テレヒ、番組で家族対向歌合戦ってあったじゃないですか。ああいうの、何回も出ましたよ (笑)。だから逆に身近すぎて、あらためで「音楽を仕事にしたい」とは思わなかった。むしろ、歌手だけにはならないだろうなと思っていたくらいで (笑)。 ——それが、高校時代の舞台の経験で一変、音楽にのめり込むようになったんですよね。 Yae：もともと人前で表現したいという思いが強かったので、最初はダンスやお芝居をやっていました。それで、『コルチャック先生』という、ポーランドのホロコーストを描いた音楽劇で歌手の役を頂いたので、実際にポーランドに行ったんです。とくに、ワルシャワのゲッ卜ーの中にあるレストランで毎晩行われていたライブは衝撃的でした。バイオリン一本だけのものすごーく暗い歌なんだけど、「カッコいい !」ってガーンときちゃって。当時、自分のまわりではR&#038;8やヒップホップが全盛で、よけいにポーランドの暗い音楽が新鮮に聞こえたのかもしれないですね。それ以来、ユダヤとかイスラエルとか、ちょっとコアな音楽を探してきて、言葉がわからないので耳で聴いてコピーして。とにかく歌ってみるという感じでした。 ——なんでもデビュー以前は、レストランや居酒屋で一人で歌っていたとか？ Yae：はい。覚えた曲を一人で歌っていても楽しくないから、まず祖父母が経営していた新宿のロシア料理店で、アカペラで歌わせてもらっていたんです。はじめは「なんか突然歌ってる子がいる」みたいな感じだったのが (笑)、私が歌う日に聴きに来て下さるお客さんがだんだん出てきて。そのうち「今度ライブをやるからゲストで歌ってくれない？」とか、そういう縁がどんどん広がって、自分の音楽活動につながっていったんです。 歌は旅の最強のコミュニケーションツール ——Yaeさんの場合、まさに旅から音楽が始まったとも言えますね。これまでも、かなりいろんな国を旅されてきたんですか？ Yae：“旅好き&#8221;というのも、うちの家族の特質らしくて。ヨーロッパ方面は結構多いですね。でも、自分の中で特別な旅っていうのはまだ少ないかな。 ——特別な旅、というのは？ Yae：いわゆる観光旅行じゃなくて、現地の人のリアルな暮らしの中まで入り込めるような旅のことです。以前、母のレコーディングにつきあって南アフリカに行った時は、現地で友達ができて、ソエットという黒人居住区に入ることができたんですよ。観光だと普通は、危険だから行ってはダメと言われるようなところなんですけど。でも、実際中に入ってみるとみんなブラザー！って感じで、「お茶飲みに来い」って言われたりして。たまたまそのソエッ卜で小学校の開校式があって、式典に出席して歌ってきました。 ——すごい (笑)。日本の歌を歌ったんですか？ Yae :いえ、全然関係ないブルガリアの歌を (笑)。みんな「変わってる歌だ」とか言って一緒に歌いだしたりして、面白かったですね。去年の冬には、森林伐採の写真を撮り続けている平野正樹さんと一緒にタスマニアを訪れたんですが、その時もたまたまシクネットという小さい村の音楽祭に参加させてもらったんです。「ジャパニーズ・ポップスターがタスマニアの森のために歌いにきた！」って村中が大騒ぎになって (笑)。私のステージも涙して聴いてもらえたり。見知らぬ国へ行っても、「アイム・シンガー」って言うと、一瞬にして壁がなくなるというか。みんな笑顔で大歓迎してくれるんですよ。それは本当に恵まれているなぁって思いますね。 ——旅先では、必ず歌うんですか？ Yae：絶対歌うんだって決めているわけではないんですけど、言葉があまりわからないぶん、歌でコミュ二ケーションをとることが多いんです。キューパに行っ た時も、浜辺でちょっと自分の歌を歌っていたりすると、みんな寄ってきて「お前は歌うのか」とか、「じゃあウチの店で今晩歌え」みたいな話になったり。 ——音楽は旅先での強力なコミュニケーションツールになるんですね。 Yae：言葉や文化を超えられるというのは、音楽の大きな魅力のひとつですよね。いろんな国に行って感じたことは、どんな辺境の地、たとえば電波も届かないような中国の山奥とかでも、音楽とお酒だけは存在するということ。コミュニケーションの手段だったり、唯一の娯楽であったり、あるいは農作業とか、辛い時期を乗り越えるためのものだったり。音楽って、ある意味とてもプリミティブな文化ですよね。海外に行くと、自分がそういうものを持ってるんだということを、より強く実感します。 ——キューパは、お母さんとこ二人だけで行かれたそうですね。 Yae：突然決まった旅だったんですよ。母がボレロ音楽祭に参加するというので。ボレロって、いわゆる日本の演歌みたいな、おじいさんたちがのど自慢で歌うような音楽なんですけどね。それも、かなり面白かった！　日本のコンサートって機材がすごく充実しているじゃないですか。でも向こうはそういうの、あまり気にしなくて、マイクなんかコードか取れてなくなっていたりするんだけど (笑)、みんなフルボリュームでうわーって歌っていて、とにかく楽しそうで。ああいうシーンを見ると、日本はなんでも恵まれているけど神経質になりすぎているなとか、いろいろ思うところがありましたね。 “旅&#8221;という栄養が、やがて音楽へ ——旅が音楽に与える影響というのは、やっぱり大きいですか？ Yae：そうですね。最近、ファンクラブの会報に旅行記を書いているんですが、それまでは旅の記憶って頭の中にとどめてあったんですね。で、いざ自分の家で曲を作ろうとピアノに向かった時に、過去の旅の風景がわーっと出てくる。だから、旅では本当に栄養をもらうというか。もらったものが体の中にちゃんと蓄積されていて、それが楽曲作りに反映されている。とくに二枚目のアルバム「Blue Line」には、ポーランドの後に行ったアイルランドでの一人旅がすごく反映されているなと思います。 ——アイルランドを選んだ理由は？ Yae：ポーランドの旅でワールドミュージックにハマっていたこともあったし、とにかくアイルランドの音楽が聴きたくて仕方なかったんです。ガイドブック一冊だけを頼りに空港に降り立って、道行く人に「どこに行ったら音楽か聴けるのか」って聞きまくったんですよ。そうしたら、「音楽だったら西へ行け」とか言われて、ゴールウェイという、いろんなミュージシャンを輩出 している古い街を教えてもらって。BB &#8230; <a href="http://www.papersky.jp/2011/07/22/yae/"><br />続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>歌手・加藤登紀子と、農事組合法人「鴨川自然王国」の創立者・故藤本敏夫という両親の元に育ち、つねに“音楽&#8221;と“旅&#8221;がそばにあったというYaeさん。そのせいなのか、自分の直感や好奇心に、羨ましいほど自然体で身をまかすことができる人だ。行きたいところに行き、会いたい人に会う、という旅のスタイルは、彼女のライフスタイルそのものでもある。さらに、「旅をする時は、なるべくなにも決めないようにしている」と言う。まるで、みずからの歌がどこまで国境を越えていけるのか見届けるかのような旅だ。海外アーテイス卜とのコラボレーションをはじめ、キューパやサンフランシスコ、タスマニアなど海外の音楽祭へも意欲的に参加するなど、現在も自由に伸び伸びと活動の場を広げている真っ最中である。さまざまな国で得た音楽、匂い、空気がいかに彼女の中で醸造し、やがて透明な歌声へと昇華していくのか、その道筋がとても知りたくなった<span id="more-5094"></span>。</p>
<p><strong>ポーランドへの旅で音楽観がー変</strong></p>
<p>——お母さんが歌手ということで、小さい頃から音楽は身近なものだったんですか？<br />
Yae：そうですね。やっぱり、育った環境はちょっと特殊だったと思います。母親のコンサートには3歳くらいの時からよく行っていて、つねにミュージシャンたちの生の音が聞けるような環境にあったし。家でも、いつもいろんな民族音楽が流れていましたね。</p>
<p>——音楽好きなご一家だったんですね。当時の、音楽にまつわる印象的な思い出ってありますか？<br />
Yae：昔、テレヒ、番組で家族対向歌合戦ってあったじゃないですか。ああいうの、何回も出ましたよ (笑)。だから逆に身近すぎて、あらためで「音楽を仕事にしたい」とは思わなかった。むしろ、歌手だけにはならないだろうなと思っていたくらいで (笑)。</p>
<p>——それが、高校時代の舞台の経験で一変、音楽にのめり込むようになったんですよね。<br />
Yae：もともと人前で表現したいという思いが強かったので、最初はダンスやお芝居をやっていました。それで、『コルチャック先生』という、ポーランドのホロコーストを描いた音楽劇で歌手の役を頂いたので、実際にポーランドに行ったんです。とくに、ワルシャワのゲッ卜ーの中にあるレストランで毎晩行われていたライブは衝撃的でした。バイオリン一本だけのものすごーく暗い歌なんだけど、「カッコいい !」ってガーンときちゃって。当時、自分のまわりではR&#038;8やヒップホップが全盛で、よけいにポーランドの暗い音楽が新鮮に聞こえたのかもしれないですね。それ以来、ユダヤとかイスラエルとか、ちょっとコアな音楽を探してきて、言葉がわからないので耳で聴いてコピーして。とにかく歌ってみるという感じでした。</p>
<p>——なんでもデビュー以前は、レストランや居酒屋で一人で歌っていたとか？<br />
Yae：はい。覚えた曲を一人で歌っていても楽しくないから、まず祖父母が経営していた新宿のロシア料理店で、アカペラで歌わせてもらっていたんです。はじめは「なんか突然歌ってる子がいる」みたいな感じだったのが (笑)、私が歌う日に聴きに来て下さるお客さんがだんだん出てきて。そのうち「今度ライブをやるからゲストで歌ってくれない？」とか、そういう縁がどんどん広がって、自分の音楽活動につながっていったんです。</p>
<p><strong>歌は旅の最強のコミュニケーションツール</strong></p>
<p>——Yaeさんの場合、まさに旅から音楽が始まったとも言えますね。これまでも、かなりいろんな国を旅されてきたんですか？<br />
Yae：“旅好き&#8221;というのも、うちの家族の特質らしくて。ヨーロッパ方面は結構多いですね。でも、自分の中で特別な旅っていうのはまだ少ないかな。</p>
<p>——特別な旅、というのは？<br />
Yae：いわゆる観光旅行じゃなくて、現地の人のリアルな暮らしの中まで入り込めるような旅のことです。以前、母のレコーディングにつきあって南アフリカに行った時は、現地で友達ができて、ソエットという黒人居住区に入ることができたんですよ。観光だと普通は、危険だから行ってはダメと言われるようなところなんですけど。でも、実際中に入ってみるとみんなブラザー！って感じで、「お茶飲みに来い」って言われたりして。たまたまそのソエッ卜で小学校の開校式があって、式典に出席して歌ってきました。</p>
<p>——すごい (笑)。日本の歌を歌ったんですか？<br />
Yae :いえ、全然関係ないブルガリアの歌を (笑)。みんな「変わってる歌だ」とか言って一緒に歌いだしたりして、面白かったですね。去年の冬には、森林伐採の写真を撮り続けている平野正樹さんと一緒にタスマニアを訪れたんですが、その時もたまたまシクネットという小さい村の音楽祭に参加させてもらったんです。「ジャパニーズ・ポップスターがタスマニアの森のために歌いにきた！」って村中が大騒ぎになって (笑)。私のステージも涙して聴いてもらえたり。見知らぬ国へ行っても、「アイム・シンガー」って言うと、一瞬にして壁がなくなるというか。みんな笑顔で大歓迎してくれるんですよ。それは本当に恵まれているなぁって思いますね。</p>
<p>——旅先では、必ず歌うんですか？<br />
Yae：絶対歌うんだって決めているわけではないんですけど、言葉があまりわからないぶん、歌でコミュ二ケーションをとることが多いんです。キューパに行っ<br />
た時も、浜辺でちょっと自分の歌を歌っていたりすると、みんな寄ってきて「お前は歌うのか」とか、「じゃあウチの店で今晩歌え」みたいな話になったり。</p>
<p>——音楽は旅先での強力なコミュニケーションツールになるんですね。<br />
Yae：言葉や文化を超えられるというのは、音楽の大きな魅力のひとつですよね。いろんな国に行って感じたことは、どんな辺境の地、たとえば電波も届かないような中国の山奥とかでも、音楽とお酒だけは存在するということ。コミュニケーションの手段だったり、唯一の娯楽であったり、あるいは農作業とか、辛い時期を乗り越えるためのものだったり。音楽って、ある意味とてもプリミティブな文化ですよね。海外に行くと、自分がそういうものを持ってるんだということを、より強く実感します。</p>
<p>——キューパは、お母さんとこ二人だけで行かれたそうですね。<br />
Yae：突然決まった旅だったんですよ。母がボレロ音楽祭に参加するというので。ボレロって、いわゆる日本の演歌みたいな、おじいさんたちがのど自慢で歌うような音楽なんですけどね。それも、かなり面白かった！　日本のコンサートって機材がすごく充実しているじゃないですか。でも向こうはそういうの、あまり気にしなくて、マイクなんかコードか取れてなくなっていたりするんだけど (笑)、みんなフルボリュームでうわーって歌っていて、とにかく楽しそうで。ああいうシーンを見ると、日本はなんでも恵まれているけど神経質になりすぎているなとか、いろいろ思うところがありましたね。</p>
<p><strong>“旅&#8221;という栄養が、やがて音楽へ</strong></p>
<p>——旅が音楽に与える影響というのは、やっぱり大きいですか？<br />
Yae：そうですね。最近、ファンクラブの会報に旅行記を書いているんですが、それまでは旅の記憶って頭の中にとどめてあったんですね。で、いざ自分の家で曲を作ろうとピアノに向かった時に、過去の旅の風景がわーっと出てくる。だから、旅では本当に栄養をもらうというか。もらったものが体の中にちゃんと蓄積されていて、それが楽曲作りに反映されている。とくに二枚目のアルバム「Blue Line」には、ポーランドの後に行ったアイルランドでの一人旅がすごく反映されているなと思います。</p>
<p>——アイルランドを選んだ理由は？<br />
Yae：ポーランドの旅でワールドミュージックにハマっていたこともあったし、とにかくアイルランドの音楽が聴きたくて仕方なかったんです。ガイドブック一冊だけを頼りに空港に降り立って、道行く人に「どこに行ったら音楽か聴けるのか」って聞きまくったんですよ。そうしたら、「音楽だったら西へ行け」とか言われて、ゴールウェイという、いろんなミュージシャンを輩出<br />
している古い街を教えてもらって。BB (Breakfast &#038;Bed )に泊まって、10日聞くらいブラブラしたかな。でも一人なので、否応なく自分と向き合ってしまうというか。「自分とはなんぞや？」みたいなことを、すごく再確認できた旅でもありましたね。もちろんその時は模索していた最中だから答えは出ていないんだけども、後で作品を振り返ると、そういう軌跡が見えていたりとか。</p>
<p>——曲作りを始めたのは、音楽の仕事を始めてからなんですか？<br />
Yae：「作ろう」とか、「作らなければ」と思ったわけではないんですが一。誰でも、十代の頃に書いた詩や日記とか、恥ずかしくて人に見せられないようなものってありますよね (笑)？　ついろんなものがたまたま引き出しの中から出てきて、見ているうちにメロディが浮かんできたんです。でも、どこまでが作品なのかっていう基準もないから、Aメ口が七番まであったりとか、しかもそれで終わっちゃってたり、ホント自己流の曲作りでした。で、いざアルバムを作りましょうという話になった時にディレクターの人に見せたら、「これはちょっと…」なんて言われたりして(笑)。</p>
<p>——直感と好奇心の赴くままに、という感じですね。<br />
Yae：でもいろんな人と話をする中で、音楽家はただ自分の気持ちをぶつけるのではなくて、人と“共有”することがすごく大事なんだということを教わりました。それからは、なんとなく意識はするようになりましたけど。</p>
<p><strong>自然発生的に広がっていく“縁&#8221;</strong></p>
<p>——さっきのキューパの音楽祭の話じゃないですけども、今の日本の音楽業界はビジネス指向というのか、まず売れるためにはというところから入っている感じがします。そんな中で、Yaeさんのように自然な好奇心を守りながら音楽活動をされている方は貴重な存在だと思うんですが。<br />
Yae：アルバムを作る時っていうのは普通、どういう人たちに受けるのかをすごく考えるんですよね。何歳なのか、男なのか、女なのか、といったようなこと。でも私の中にはそういうビジネスフローみたいなものはまったくなくて。とにかく自分の興味のある音だけをどんどんレコーディングしていったら、すごく面白い音がたくさんできていた。今だけじゃなくてこの先何十年も、海外に持っていっても聞けるような音楽になっていたり。自分にとってはすごくいい形で曲作りができたのでよかったなと思っています。</p>
<p>——実際、昨年夏にはハワイのアーテイスト、テレサ・ ブライトプロデュースによる四枚目のアルバム『aloha nui』もリリースされましたよね。 Yae：実は、以前はハワイにそんなに興味がなかったんです。でもひょんなことから、友達にテレサ・ブライトさんのCDを勧められて。聴いてみたら、なんというか、ハワイのスピリチュアルな部分がとってもシンプルな言葉で表現されていて、本当によかったんですよ。まず、テレサさん自身がものすごく深ーい声の持ち主で。大きいとかパワフルっていうのともまた違うんですよね。こういう風に歌えたら&#8230;って大ファンになっちゃって。で、たまたまテレサさんが来日しているのを知ったので、自分のCDを持って会いにいきました。その数ヶ月後、一緒にアルバムを作りたくてハワイまで追いかけたんです。</p>
<p>——それで本当に実現しちゃうのがすごい。ところで、ライブする場所も、民家やお寺、レストランなど独特ですよね。あれもご自分で決めるんですか？<br />
Yae：私の場合、本当に縁に恵まれているというか。いろんな出会いで知り合った方が、ユニークなアイデイアを出して下さることが多いんです。でも、世の中<br />
まわりを見渡すと素敵な場所っていっぱいあるんですよ。ここに音楽が流れたらとてもいいなって思う場所が。コンサートホールやライブハウスはあらかじめ音楽を聴くために用意されている場所じゃないですか。もちろんそれはそれで集中できるし聴きやすいけど、音楽だけじゃない要素ももっと感じてもらいたいなあっていう思いがあって。空気とか風の匂いや温度とか、五感で感じるような空間を作ることがライブなんじゃないかなって私は思うんです。</p>
<p>——旅する場所を決めるようにライブの場所を決めるというスタイルが、きっとYaeさんの縁を広げていっているんでしょうね。<br />
Yae：そうですね。音楽の世界だけじゃなくて、洋服を作る人や料理を作る人、いろんなジャンルの方達との縁が広がっていって、その中に音楽を取り入れようというのが私のテーマでもあるんです。今千葉県で田舎暮らしをしていて、出産も控えているんですけど、そういう生活の中で最近はすごく“衣食住”ということを意識しはじめています。以前は、着るものなんてなんでもいいし、食事も空腹が満たされればそれでいいと思っていたけど、音楽を通じて、もっともっと自分らしく、ライフスタイルにこだわるようになってきたように思います。</p>
<p>——食といえば、ファンクラブの人たちと一緒に“田植えライブ&#8221;をやったんですよね？<br />
Yae：父親の影響も大きいんですが、最近本当に食べることって大切だなあと思って。それと、みんなを田舎に呼べるような企画を考えていたので、じゃあ、まず日本人の主食であるお米を一緒に作るのがいいんじゃないかと。</p>
<p>——ライブは？　田植えの最中に歌ったんですか？<br />
Yae：それは終わった後の宴会で (笑)。あぜ道で歌うのもいいかなーと思ったんですけどね。都会にいると、まず裸足で土を踏むってことがほとんどないでしょう。みんな、田んぼの泥の中に入ったとたん、喜びの叫びというか、なんともいえない声を出していたのが印象的でした。環境問題への取り組みはそういう体験から始まることだと思うし、ちっともむずかしいことじゃないんですよね。だから私も自分で体験しながら、少しでもそういうことを伝えていけるような活動をしたいと思ってるんです。</p>
<p>——次の旅の予定は？　といっても出産まではおとなしくしていないといけませんね。<br />
Yae：そう、今は海外の旅はするなって言われているんですけど。本当は、インドに行きたかったりするんですよね (笑)。私の場合いつもそうなんですが、「あ、行きたい」と思ったら、テレビでインドの番組をたまたま観たり、本屋に行ってもやたら“インド&#8221;の文字が自についたり。呼ばれているのかな？と思っちゃう。でもなんていうか、その時に行きたいところや会いたい人への自分の気持ちを自然にキャッチしていけば、いい巡り会いができると思うんですよね。だから、スリや事件にも巻き込まれない。私も実際、今のところは危ない目に遭ったことはないですし。</p>
<p>——やりたいようにやるという当たり前のことができにくくなっている気もしますね。<br />
Yae：仕事とかいろんなことにコントロールされると、だんだん心と頭の回路が鈍ってくるのかもしれない。食べ物に関しでも、体が求めているものがわからなかったり。本当はわかっているのに、自分自身で封じ込めているところもあるんじゃないかな。でも旅に出て、たとえばキューパの人のように自由に生きている姿を見ると、自分がなにに縛られているのかが見えたりもする。それもまた、すごく大きな旅の魅力ですよね。だから、しばらくはムリですけど、次は子供と一緒に、また旅ができたらいいなと思っています。</p>
<p>Yae  歌手<br />
東京生まれ。故藤本敏夫、歌手加藤登紀子の次女。1999年より本格的に歌手活動を始める。2001年6月アルバム『new Aeon』でデビュー。海外での活劃にも意欲的で、キューパでの音楽祭、サンフランシスコでの世界平和音楽賞などに参加。現在までに4枚のアルバム、3枚のシングルCDをリリース。現在、ラジオのパーソナリティーを務めながら、ライブを中心に全国で活動中。また、国内外を問わず、慈善事業としてチャリティーコンサートやそのための支援イベントでのパフォーマンスも積極的に行いたいと『Yae Suppormance (サポーマンス) 」をスタ一卜。<a href="http://www.yaenet.com" target="blank">www.yaenet.com</a><br />
<em><br />
※このインタビューは<a href="http://www.fujisan.co.jp/Product/1281680322/b/90703/ap-kneehighmedia" target="blank">『ペーパースカイ』No.16</a>（2006年）に掲載されたものです。<br />
インタビュー＆構成：井尾淳子</em></p>
<p><img src="http://www.papersky.jp/wp-content/uploads/2010/08/1009_yae_b.jpg" alt="" title="1009_yae_b" width="528" height="350" class="alignnone size-full wp-image-5102" /></p>
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		<title>木を知り尽くし、木に親しむものづくり―マルニ木工の新作家具</title>
		<link>http://www.papersky.jp/2011/07/08/maruni-wood-industry/</link>
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		<pubDate>Fri, 08 Jul 2011 03:28:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>上野勝義</dc:creator>
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		<description><![CDATA[広島の木工家具メーカー、マルニ木工は５月に東京のショールームで展覧会を行い、４月のミラノサローネ国際家具見本市で発表された MARUNI COLLECTION 2011 の新作「Roundish」と「Lightwood」シリーズを国内で初めて披露した。 会場ではショールームの1Fとリニューアルオープンした地下フロアで製品が展示され、2Fでは製造工程・各パーツの構造などが詳しく紹介された。実際に椅子やテーブルを試しながら、技術的な構造を詳しく知ることができる。 すっきりとした木組みとシンプルな座面の組合せが、いかにも素朴な軽やかさを感じさせる「Lightwood」。一見、硬い質感を想像させるが、座ってみると座面の張りがちょうどよく、背もたれも心地よい。座面も、ウェービング・メッシュ・ファブリック・レザーなど豊富なバリエーションが揃い、各シートのビジュアルを見比べているだけでも楽しい。 一方で「Roundish」は、無垢材の加工を得意とする同社としては珍しい成形合板を用いた椅子。デザイナー、深澤直人氏の提案・デザインにより何度も試作が繰り返され、高度な技術による合板加工と無垢材の組合せ、精巧な曲面が実現した。実際に椅子に腰掛けて身を預けると、本来は別々であるはずの座面と背もたれが、まるで一つの曲面のように身体を包み込む。ぱっと見の印象からは想像がつかないほどの優れた座り心地を持つ椅子だ。 そんな２つの新作シリーズを世に送り出した広島の木工家具メーカー、マルニ木工―広島市から西、もともと林産業に深い関わりを持つ廿日市から、山間を上って行った先に本社・工場を構えている。敷地内には加工を待つ木材が整然と積み上げられ、工場内ではそれぞれの持ち場で職人達が自在に機械を操りながら黙々と作業を進めている。まるで小さな工房の集合体のような、手作りと機械生産の融合した空間だ。 私たち人間にとって最も身近な素材であり、生き物のぬくもりを感じさせる「木」。職人達の高度な技術が可能にする新しい素材や加工への挑戦。その一方で、自然の木を用いて大量生産品を作る上では避けて通れない環境問題。更には「椅子に座る」という西洋家具の歴史への挑戦。日本で木工の洋家具を作るメーカーとして、83年の歴史を持つマルニ木工がどのような意志をもって今回の新作を発表したのか、同社の広報担当に話を聞いた。 ※それぞれのシリーズで、椅子とテーブル両方が発表されているが、本稿では椅子のみをとり上げる。 【インタビュー】 ── 「木を使う」ということに関して、御社では計画伐採材の使用、森林認証の取得など様々な取り組みを行っていると伺っています。しかし一方で「木を切る」事に関しては様々な環境保護キャンペーンが行われており、一般にはマイナスのイメージと結びつきやすい側面は否定できません。 　現代では、木材だけでなく、金属やコンクリート、石油製品などあらゆる資材が選択肢にありますが、御社が「木」に拘り続ける最大の理由は何でしょうか。 私たちは83年間木と向き合い続けてきましたが、家具に最も適する素材は「木」だと考えています。自然素材が人に与える安らぎはもちろんのこと、木は家具へと形を変えても呼吸をし、人と同様に経年変化し、使う人との関係によってより美しく変わり続けることが出来ます。それは使い手にとっても魅力的なことではないでしょうか。 そしてご指摘の通り、環境保護の面も考慮し、主要木材を再生可能な森林から伐採されたものへ切り替えつつあります。80年～100年の時間を経過して育った木ですから、「100年後も『世界の定番』として認められる」、そんな木工家具を創造し続けようと考えています。 ── 深澤直人氏、ジャスパー・モリソン氏共に、木を積極的に用いて作品を制作している印象はこれまでありませんでした。彼らにとって、木工メーカーである御社と組むことの魅力はどのような点にあると思われますか？ 私たちには「工芸の工業化」という創業者の言葉があります。その言葉通り、工芸と言う緻密で繊細な領域を、機械加工と手作業の良さを最大限に引き出すことで工業化してきました。そこにはこだわり磨き続けてきた「徹底した精緻なモノ作り」という工場の特性があります。私たちにしか出来ないそのような正確で緻密な木工技術は、デザイナーが今までやりたかったけれども困難であった木工家具を具現化することに繋がりました。 ── Lightwoodシリーズでは使われている木材の量が少なく、見た目にも軽さが強調され、御社のラインナップの中でも特異なキャラクターを持っていると思います。 御社はこれまでどちらかと言えば重厚感のあるリッチな印象の家具を中心に制作されてきていると感じていましたが、今回の新作にどのような可能性を期待されていますか？ （新たな顧客層／使用される場所など） 私たちはホームユース向けの家具がメインですが、Lightwoodは価格も構造もコントラクトユースに向いています。バリエーション豊かでメンテナンス性に優れたシートや、丈夫でありながら2.5kgという取り扱い易さはコントラクトなど多くの家具を使う場所では、大きな利点となります。 また、価格やその軽やかさから、都会などで比較的コンパクトな住居にお住まいの方にも受け入れていただき易いと考えています。 ── Roundishでは合板を主に使用されています。御社のこれまでの家具作りを見ているとかなり意外に感じました。これは、デザインのコンセプトを実現するための合理的な選択だったということでしょうか。それともコスト（価格／木の使用量）をより強く意識したものなのでしょうか。技術的な難易度など特筆すべきことがあればそれもお知らせいただければ幸いです。 現在の木工家具は大きく無垢と成形合板に大別されます。そしてそれぞれに特性と利点があります。私たちは削り出しなどによる無垢材加工を得意としていますが、今後も木工メーカーとして続ける上で、合板に取り組まずにいることは難しいと考えています。今回デザイナーである深澤さんは、デザインに最適な素材として合板を選ばれました（実際にあのカーブを無垢で作ろうとすれば、大きな木の固まりから削り出していくことになり、材がかなり無駄になります）が、合わせて私たちへの提案でもあり、私たちもその意味を理解し、マルニ木工らしい合板を模索しました。通常の合板よりも厚みがあり、木口の面取り加工は全て人の手によって優しく丸みがつけられています。さらにオーク材のタイプは、オークならではの荒々しさを感じられるような仕上げにしています。 また、合板と無垢材との組合せがRoundishの特徴でもあり、合板の曲線に無垢材をぴったりと合わせることは見た目以上に高い技術と緻密な作業が必要となります。 ご質問のお答えとしてはデザインに適しているということと、コストと両方ですが、さらに私たちが取り組むべき課題へのチャレンジでもありました。 ── 座り心地に関して、これまで御社が製作してきた椅子を拝見していると、海外メーカーのような工学的、ビジュアル重視のアプローチよりも、心理的な座り心地をより重視されているように感じます。 　例えば今回の新作Lightwoodチェアの革張りに座ると特別落ち着いた気持ちになったり、 Roundishチェアに座るとほんとうに体が包まれるような感覚を覚えたりします。 　「人が座る」ということに関して御社が追求するもの、ポリシーなどあれば最後にぜひお聞かせください。 椅子は人が最も触れる家具であり、使い手が長く時間を共有する家具です。だからこそ、座り心地にはこだわっています。いくらデザインが素晴らしくても、座り心地が悪ければ、その椅子には座らないでしょう。深澤さんにも言われましたが、若い頃は気にならなくても、年配の方が座布団を挟んだり、クッションを使ったりするのは、無意識に身体が座り心地の悪さに気付いていて、その結果の行動だと思います。座り心地は長く愛されるための必要条件なのです。私たちはそのような家具作りのために、デザイナーの優れたデザインとメーカーの木工技術が相互に高め合うような製品作りを意識しています。美しいだけではない、使う人と時間をかけて良い関係を築いていける家具です。それは人が感じるモノとの幸福な関係であり、国や文化を越える共通の価値だと考えています。 株式会社マルニ木工（Maruni Wood Industry &#8230; <a href="http://www.papersky.jp/2011/07/08/maruni-wood-industry/"><br />続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>広島の木工家具メーカー、マルニ木工は５月に東京のショールームで展覧会を行い、４月のミラノサローネ国際家具見本市で発表された MARUNI COLLECTION 2011 の新作「Roundish」と「Lightwood」シリーズを国内で初めて披露した。<br />
会場ではショールームの1Fとリニューアルオープンした地下フロアで製品が展示され、2Fでは製造工程・各パーツの構造などが詳しく紹介された。実際に椅子やテーブルを試しながら、技術的な構造を詳しく知ることができる。</p>
<p>すっきりとした木組みとシンプルな座面の組合せが、いかにも素朴な軽やかさを感じさせる「Lightwood」。一見、硬い質感を想像させるが、座ってみると座面の張りがちょうどよく、背もたれも心地よい。座面も、ウェービング・メッシュ・ファブリック・レザーなど豊富なバリエーションが揃い<span id="more-8856"></span>、各シートのビジュアルを見比べているだけでも楽しい。</p>
<p>一方で「Roundish」は、無垢材の加工を得意とする同社としては珍しい成形合板を用いた椅子。デザイナー、深澤直人氏の提案・デザインにより何度も試作が繰り返され、高度な技術による合板加工と無垢材の組合せ、精巧な曲面が実現した。実際に椅子に腰掛けて身を預けると、本来は別々であるはずの座面と背もたれが、まるで一つの曲面のように身体を包み込む。ぱっと見の印象からは想像がつかないほどの優れた座り心地を持つ椅子だ。</p>
<p>そんな２つの新作シリーズを世に送り出した広島の木工家具メーカー、マルニ木工―広島市から西、もともと林産業に深い関わりを持つ廿日市から、山間を上って行った先に本社・工場を構えている。敷地内には加工を待つ木材が整然と積み上げられ、工場内ではそれぞれの持ち場で職人達が自在に機械を操りながら黙々と作業を進めている。まるで小さな工房の集合体のような、手作りと機械生産の融合した空間だ。</p>
<p>私たち人間にとって最も身近な素材であり、生き物のぬくもりを感じさせる「木」。職人達の高度な技術が可能にする新しい素材や加工への挑戦。その一方で、自然の木を用いて大量生産品を作る上では避けて通れない環境問題。更には「椅子に座る」という西洋家具の歴史への挑戦。日本で木工の洋家具を作るメーカーとして、83年の歴史を持つマルニ木工がどのような意志をもって今回の新作を発表したのか、同社の広報担当に話を聞いた。</p>
<p>※それぞれのシリーズで、椅子とテーブル両方が発表されているが、本稿では椅子のみをとり上げる。</p>
<p>【インタビュー】</p>
<p><font color=#666>── 「木を使う」ということに関して、御社では計画伐採材の使用、森林認証の取得など様々な取り組みを行っていると伺っています。しかし一方で「木を切る」事に関しては様々な環境保護キャンペーンが行われており、一般にはマイナスのイメージと結びつきやすい側面は否定できません。<br />
　現代では、木材だけでなく、金属やコンクリート、石油製品などあらゆる資材が選択肢にありますが、御社が「木」に拘り続ける最大の理由は何でしょうか。</font></p>
<p>私たちは83年間木と向き合い続けてきましたが、家具に最も適する素材は「木」だと考えています。自然素材が人に与える安らぎはもちろんのこと、木は家具へと形を変えても呼吸をし、人と同様に経年変化し、使う人との関係によってより美しく変わり続けることが出来ます。それは使い手にとっても魅力的なことではないでしょうか。<br />
そしてご指摘の通り、環境保護の面も考慮し、主要木材を再生可能な森林から伐採されたものへ切り替えつつあります。80年～100年の時間を経過して育った木ですから、「100年後も『世界の定番』として認められる」、そんな木工家具を創造し続けようと考えています。</p>
<p><font color=#666>── 深澤直人氏、ジャスパー・モリソン氏共に、木を積極的に用いて作品を制作している印象はこれまでありませんでした。彼らにとって、木工メーカーである御社と組むことの魅力はどのような点にあると思われますか？</font></p>
<p>私たちには「工芸の工業化」という創業者の言葉があります。その言葉通り、工芸と言う緻密で繊細な領域を、機械加工と手作業の良さを最大限に引き出すことで工業化してきました。そこにはこだわり磨き続けてきた「徹底した精緻なモノ作り」という工場の特性があります。私たちにしか出来ないそのような正確で緻密な木工技術は、デザイナーが今までやりたかったけれども困難であった木工家具を具現化することに繋がりました。</p>
<p><font color=#666>── Lightwoodシリーズでは使われている木材の量が少なく、見た目にも軽さが強調され、御社のラインナップの中でも特異なキャラクターを持っていると思います。<br />
御社はこれまでどちらかと言えば重厚感のあるリッチな印象の家具を中心に制作されてきていると感じていましたが、今回の新作にどのような可能性を期待されていますか？<br />
（新たな顧客層／使用される場所など）</font></p>
<p>私たちはホームユース向けの家具がメインですが、Lightwoodは価格も構造もコントラクトユースに向いています。バリエーション豊かでメンテナンス性に優れたシートや、丈夫でありながら2.5kgという取り扱い易さはコントラクトなど多くの家具を使う場所では、大きな利点となります。<br />
また、価格やその軽やかさから、都会などで比較的コンパクトな住居にお住まいの方にも受け入れていただき易いと考えています。</p>
<p><font color=#666>── Roundishでは合板を主に使用されています。御社のこれまでの家具作りを見ているとかなり意外に感じました。これは、デザインのコンセプトを実現するための合理的な選択だったということでしょうか。それともコスト（価格／木の使用量）をより強く意識したものなのでしょうか。技術的な難易度など特筆すべきことがあればそれもお知らせいただければ幸いです。</font></p>
<p>現在の木工家具は大きく無垢と成形合板に大別されます。そしてそれぞれに特性と利点があります。私たちは削り出しなどによる無垢材加工を得意としていますが、今後も木工メーカーとして続ける上で、合板に取り組まずにいることは難しいと考えています。今回デザイナーである深澤さんは、デザインに最適な素材として合板を選ばれました（実際にあのカーブを無垢で作ろうとすれば、大きな木の固まりから削り出していくことになり、材がかなり無駄になります）が、合わせて私たちへの提案でもあり、私たちもその意味を理解し、マルニ木工らしい合板を模索しました。通常の合板よりも厚みがあり、木口の面取り加工は全て人の手によって優しく丸みがつけられています。さらにオーク材のタイプは、オークならではの荒々しさを感じられるような仕上げにしています。<br />
また、合板と無垢材との組合せがRoundishの特徴でもあり、合板の曲線に無垢材をぴったりと合わせることは見た目以上に高い技術と緻密な作業が必要となります。<br />
ご質問のお答えとしてはデザインに適しているということと、コストと両方ですが、さらに私たちが取り組むべき課題へのチャレンジでもありました。</p>
<p><font color=#666>── 座り心地に関して、これまで御社が製作してきた椅子を拝見していると、海外メーカーのような工学的、ビジュアル重視のアプローチよりも、心理的な座り心地をより重視されているように感じます。<br />
　例えば今回の新作Lightwoodチェアの革張りに座ると特別落ち着いた気持ちになったり、<br />
Roundishチェアに座るとほんとうに体が包まれるような感覚を覚えたりします。<br />
　「人が座る」ということに関して御社が追求するもの、ポリシーなどあれば最後にぜひお聞かせください。</font></p>
<p>椅子は人が最も触れる家具であり、使い手が長く時間を共有する家具です。だからこそ、座り心地にはこだわっています。いくらデザインが素晴らしくても、座り心地が悪ければ、その椅子には座らないでしょう。深澤さんにも言われましたが、若い頃は気にならなくても、年配の方が座布団を挟んだり、クッションを使ったりするのは、無意識に身体が座り心地の悪さに気付いていて、その結果の行動だと思います。座り心地は長く愛されるための必要条件なのです。私たちはそのような家具作りのために、デザイナーの優れたデザインとメーカーの木工技術が相互に高め合うような製品作りを意識しています。美しいだけではない、使う人と時間をかけて良い関係を築いていける家具です。それは人が感じるモノとの幸福な関係であり、国や文化を越える共通の価値だと考えています。</p>
<p>株式会社マルニ木工（Maruni Wood Industry Inc.）<br />
<a href="http://www.maruni.com/">http://www.maruni.com/</a><br />
広島県広島市佐伯区湯来町白砂24番地<br />
TEL: (0829)40-5095 (代)</p>
<p><img src="http://www.papersky.jp/wp-content/uploads/2011/07/pic01.jpg" alt="" title="pic01" width="528" height="350" class="alignnone size-full wp-image-8857" /></p>
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		<title>ピコ・アイヤー｜移動の中に世界を見た、グローバルな作家</title>
		<link>http://www.papersky.jp/2011/06/24/pico-iyer/</link>
		<comments>http://www.papersky.jp/2011/06/24/pico-iyer/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 24 Jun 2011 00:00:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>PAPERSKY</dc:creator>
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		<category><![CDATA[pico iyer]]></category>

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		<description><![CDATA[外交官や外務大臣は、自国を代表して地球を旅する。ピコ・アイヤーは、その熱心な読者に世界を見せるために、もう20年もの間、旅を続けてきた。６冊の本と、北朝鮮からカトマンズまで、様々な土地についてのエッセイの書き手として、アイヤーは永久運動を続ける世界で、常に起きている文化の衝突について書いているアイヤー自身もまた永久運動の状態にあり、ほとんどそこで時間を過ごすことのない家を持つ人間」である。ここ数年、アイヤーの帰りのチケットは、奈良の田舎のアパートと日本人のパートナーのもとへ終着する。そこで今回、ペーパースカイ編集部は、そんな彼に少しだけ時間を割いてもらい、世界が彼の目にどう映り、どうやってそこへ行けばいいのか聞いてみた。 ──「作家のプロフィール」には、&#8221;トラベル・ライター（旅行作家）”という言葉が見当たりませんが、ご自分をトラベル・ライターとは考えていないということですか？ そうだね。僕は文化が交差し折り重なる環境で育ってきたから、クロス・カルチュラルな関係でものを考える傾向があるんだ。旅行はそうしやすい状況に置いてくれる。でも僕にとって、旅はほとんどの場合、手段でしかない。実際の旅の部分は、異質さとの出遭いや２人以上の他人が出遭う時の、ロマンスやコメディ、そしてたまに起きる悲劇ほどおもしろくはない。確かにチベットを横断することも、失われたアマゾンの心底に踏み込むこともないまま、冒険の本を書く作家もいるよね。そうした本は、ある意味、身体的な動きについて書かれていると思うんだ。でも僕が意識しているのは、もっと心理的、もしくは感情的な動きだ。僕にとって、今でもその方面の帝王であるジャン・モリスは、自分がトラベル・ライターでなく、ただ場所について書いているだけだと言っている。たぶん、いわゆるトラベル・ライターと呼ばれている人たちは、彼女の言葉に嫉妬してると思うよ。 ──　昨年はどれくらい旅していたのですか？ たぶん４ヶ月くらい。でもその間、奈良に来ればほとんど近所から離れることはない。こっちにいるときは、特に交通手段を持たないから。自分の足で歩ける範囲でしか出歩かない。それに、去年は３、４週間をカリフォルニアの修道院で過ごしたから、そこでも当然、移動はないよね。だから書いたり考えたり読んだりすることに費やされる。しかしその一方では、世界を体験したり味わったりするためによく移動するという、極端な状態の間を行ったり来たりする傾向にあるんだ。例えば、去年の８月はイェーメンとオマーンとギリシャとアメリカにいた。９月にはカナダとシンガポールと対。その後、奈良に来て、３ヵ月間は移動しなかった。それから再び腰を上げて、１月のボリビアとペルーへ渡り、２月にはインドとベトナムとタイ、そして１日だけ日本にいた。たまに１週間のうちに３つから４つの大陸を移動して、それぞれにとどまりながら、墓地鶏、地球を一周するときもあれば、逆に反対の状態ににあると全く動かなくなるわけさ。 ── あなたの旅は、昨年で最も大きなトラベル・ストーリーだったテロリズムの影響を受けましたか？ いや、全く。９月11日の週、僕は米国内で何度も飛行機に乗り、次の週には日本、そしてシンガポールに飛んでいた。９月11日のもうひとつの皮肉は、まだビルから煙が上がっているときに、ニューヨーク・タイムズ紙から、その出来事について書いて欲しいという依頼があったんだ。でも僕は出来ないと断った。その日は、完成したばかりのイスラムとアメリカの衝突について書いた小説の校正をしなければならなかったから。 ── あなたは新作で禅からイスラム、そしてキリスト教にいたるまで、精神性と宗教について多く書かれていますが時事的な出来事や、宗教VS発展のイデオロギーについてはどうお考えですか？ それは『The Global Soul』のような本であなたが説明している、ポストモダンな世界の見方にどう影響していますか？ イスラムの革命家と宗教的な信仰に関わるその他の多くの人々は、逆行することが発展につながると思っているような気がします。過去へ戻り、なにか本質的なものへと立ち返り、現代世界に背を向けることで。僕もある程度は共感できる。『The Global Soul』の主なテーマと僕の思考の多くは、文化を越えた雑音でしかない。熱狂的で、断片的で、高揚させるMTVのビデオのように見えたり、感じられｒたり刷る、あるｈ週ポストモダンな世界。そして現代世界のMTVコマーシャルを体験すればするほど、そこから抜け出させてくれるものへの欲求が生まれ、大抵その場合は、精神的なセミナーや伝統や信仰の素地となったりする。『The Global Soul』で、僕は自分と読者を現代のカオスのど真ん中へ連れていこうとしたんだと思う。ある意味、人がなぜモスクやセミナーや修道院に通ったり、自分たちが抜ける理由として感じている、あの騒然とした感覚や船酔い感や疲労感や時差ボケの感覚を表現しようとしたんだ。そして書き終えたばかりの本は、明確に伝統と信仰に根ざしていると思う。イスラム世界、対、僕がある意味、対極にあると考えているカリフォルニアとの対話について。 ── 新作では、現在起きていることに応用できる、イスラムと西洋の和解について何か書かれていますか？ 個々人がそれぞれの状況に直面することだね。主人公はみんなカリフォルニアの人間だけど、彼らは中東のどこかへ行くことで、慰めや謙遜や、自由さえ見つけ出す。それはかカリフォルニアのある人たちの間に潜む飢餓感みたいなもので、あまりに伝統がないために、他の古い文化が提供してくれるものを、喉から手が出るほどほしがっているんだ。それはある意味、人々が自分たちとは正反対の文化を夢見る方法についてのものさ。 現在のムスリムとマック（マクドナルド）ワールドの議論の若いと、僕の本への回答に関していえば、ステレオタイプや憶測に斬り込んで、ほかの文化のニュアンスや異質さを見るのに、旅は友好だと信じています。ある意味、最近の出来事は、両世界の人々がステレオタイプを元に互いを非難し合っている状態だと思うから。ムスリムの急進派がアメリカを見た場合、その高圧的な政府（またはその大衆文化）しか見ておらず、アメリカ人もまた、ほとんど何も知らないイスラムを糾弾する。僕が思うに、どちらにしろ一番の解決策はどこかへ旅して、自分とどれだけ同じで、どれだけ違うかを知ることなんだと思う。 去年の８月にアラビアで数週間過ごすことができてよかったと思うよ。９月11日、僕が一番有り難く思ったのは、イェーメンのアーデンという港町にいる一人の人間として、ひどく貧しく恵まれないアラビアの地域（実際、ウサマ・ビン・ラディンの生まれた場所の近くで）の視点で世界を見られたことだったしね。つまり僕にとって現代世界の大きな栄光は、大きく異なった状況にいる人の目に世界がどう映っているのかを体験できることなんだ。しかし世界の貧しい（たいていムスリムだが）人々が、僕らの方へやってくるほどの資金力はない。だから悲惨な状況で暮らす人々のところへ出向き、物事を見ることは、より恵まれた僕らにかかっている。僕らが変化を起こせるとしたら、そこだと思う。 ── あなたの文章は、文学への自愛と知識に満ち溢れています。あなたの文章を読むと、文学と旅はなにか共通するものがあるという印象をうける。幽体離脱に似た体験のように。あるところで、あなたは「ゆっくりとページを捲ることで、別の自分の謎を探求する、読書の特別な喜び」について書いています。また、旅することで見出される、人の身になって経験する喜びについても触れています。一番悲しい別れは「外国の空港で、海外で得た勇敢で無責任な自分を脱ぎ捨て、いつもの仕事の生活を思い出しながら、自分に別れを告げること」と言っていますね。 それ、僕が書いたのかい！ おもしろいことに、３日ほど前、ドナルド・リッチーの『Inland Sea』を読み直してみて、ちょうど同じ結論に達したんだ。実際、先週、偉大な旅行者ほど偉大な読者だという、短いエッセイを書いたばかりで。それは旅行者というものが本来孤独で、彼らが訪れる先の文化に持ち込むものの一部に、彼らが読んできた本があるということ。ドナルド・リッチーのことを日本について書いた素晴らしく際立った作家だと思うのは、彼らがあらゆる文化で咀嚼してきた本の膨大な知識を持ち込み、ほかの多くの土地へと旅していることだ。彼が本の中で内海を彷徨し、ジョンソンやルソーやジェーン・オーステンを引き合いにだしながら持ち出してくる様々な本は、ただ三島や川端や紫式部を引用するだけでは得られないような広い視野を与えてくれる。ある意味、想像の中で起きているこの二つの孤独な探求には素晴らしいものがある。エマーソンは僕らがどうやって自分の読む本を発明していくのかを書いた。そして同じように、僕らは自分たちが訪れる場所を発明していくわけだ。 ── あなたは「偉大な旅行者」と言っていますね。「いい旅行者」とはどういうものか、また「悪い旅行者」というのもあると思いますか？ 有効に旅行するために必要なのは、特にそれぞれの憶測を家に残し、周囲の異質さにできるだけ身を預けること。旅の美学とは、突然、今まで想像していたことと全く正反対で、極端に違う視点で世界を見られるようになることだ。もし「いい旅行者」というものがあるとすれば、その人が訪れている先の人々の目を通して世界を見たいと欲する人間のこと。もし「悪い旅行者」、もしくは「悪い観光客」というものがあるとすれば、それは家を出る前から固定観念をもってしまう人のことだ。 また、いい旅行者とは、衝撃を受け変わるための心の準備ができている人だ。僕にとって唯一大事な本当の旅は、最初の憶測から離れ、内側で起きている。だから例えば、僕が休暇に出かけるとき、僕はハワイやパリやロンドンへは行かないようにする。それは僕の憶測や先入観を強めるだけのような気がするから。逆にハイチやエチオピアやイェーメンへ行くだろう。僕を揺るがし戻ってきたときに色々考えさせられると、結構自信を持って思えるから。カミュは、旅に価値を与えるのは恐怖だといった。それでも僕は恐怖だけを感じろと言っているのではなく、それがチャレンジと自分の心をかき乱してくれると信じている。 ── それじゃ、休暇で旅行をするときもそんな欲求があるのですか？ 僕は旅をすることで生計を立てていく幸運を得たために、いわゆる休暇というものには余り縁がないんだけど。最近僕がしているのは、毎年正月の休暇に母親をつれていくこと。でも母親を連れて行ったのは、カンボジアやイースタ島やシリアやヨルダン。だから70歳の母親を連れて行くにしても、面白くてチャレンジの出来る場所へ連れていこうとするんだ。往々にして、僕が世界で行くところは、ロスやニューヨークよりも安全なところさ。カリフォルニアや日本の家の居心地に慣れていると、家が安全でインドやカンボジアやハイチが危険だと思いがちになる。でも実際、統計的にもロスやワシントンはベイルートやプノンペンよりもずっと危険なんだ。日本はわりと安全だけどね&#8230;。 ── いわゆる、あなたの日本の家は維持していくのですか？ 選べるなら、僕は喜んで、一生日本に住んでもいいと思ってるよ。世界のどこを探しても、日本ほど自分に合い、尊敬し、好きな国は思いつかない。ここに観光ビザで住んでいるとしてもね。 　 ピコ・アイヤー &#8230; <a href="http://www.papersky.jp/2011/06/24/pico-iyer/"><br />続きを読む <span class="meta-nav">&#8594;</span></a>]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>外交官や外務大臣は、自国を代表して地球を旅する。ピコ・アイヤーは、その熱心な読者に世界を見せるために、もう20年もの間、旅を続けてきた。６冊の本と、北朝鮮からカトマンズまで、様々な土地についてのエッセイの書き手として、アイヤーは永久運動を続ける世界で、常に起きている文化の衝突について書いているアイヤー自身もまた永久運動の状態にあり、ほとんどそこで時間を過ごすことのない家を持つ人間」である。ここ数年、アイヤーの帰りのチケットは、奈良の田舎のアパートと日本人のパートナーのもとへ終着する。そこで今回、ペーパースカイ編集部は、そんな彼に少しだけ時間を割いてもらい、世界が彼の目にどう映り、どうやってそこへ行けばいいのか聞いてみた<span id="more-8690"></span>。</p>
<p>──「作家のプロフィール」には、&#8221;トラベル・ライター（旅行作家）”という言葉が見当たりませんが、ご自分をトラベル・ライターとは考えていないということですか？</p>
<p>そうだね。僕は文化が交差し折り重なる環境で育ってきたから、クロス・カルチュラルな関係でものを考える傾向があるんだ。旅行はそうしやすい状況に置いてくれる。でも僕にとって、旅はほとんどの場合、手段でしかない。実際の旅の部分は、異質さとの出遭いや２人以上の他人が出遭う時の、ロマンスやコメディ、そしてたまに起きる悲劇ほどおもしろくはない。確かにチベットを横断することも、失われたアマゾンの心底に踏み込むこともないまま、冒険の本を書く作家もいるよね。そうした本は、ある意味、身体的な動きについて書かれていると思うんだ。でも僕が意識しているのは、もっと心理的、もしくは感情的な動きだ。僕にとって、今でもその方面の帝王であるジャン・モリスは、自分がトラベル・ライターでなく、ただ場所について書いているだけだと言っている。たぶん、いわゆるトラベル・ライターと呼ばれている人たちは、彼女の言葉に嫉妬してると思うよ。</p>
<p>──　昨年はどれくらい旅していたのですか？</p>
<p>たぶん４ヶ月くらい。でもその間、奈良に来ればほとんど近所から離れることはない。こっちにいるときは、特に交通手段を持たないから。自分の足で歩ける範囲でしか出歩かない。それに、去年は３、４週間をカリフォルニアの修道院で過ごしたから、そこでも当然、移動はないよね。だから書いたり考えたり読んだりすることに費やされる。しかしその一方では、世界を体験したり味わったりするためによく移動するという、極端な状態の間を行ったり来たりする傾向にあるんだ。例えば、去年の８月はイェーメンとオマーンとギリシャとアメリカにいた。９月にはカナダとシンガポールと対。その後、奈良に来て、３ヵ月間は移動しなかった。それから再び腰を上げて、１月のボリビアとペルーへ渡り、２月にはインドとベトナムとタイ、そして１日だけ日本にいた。たまに１週間のうちに３つから４つの大陸を移動して、それぞれにとどまりながら、墓地鶏、地球を一周するときもあれば、逆に反対の状態ににあると全く動かなくなるわけさ。</p>
<p>── あなたの旅は、昨年で最も大きなトラベル・ストーリーだったテロリズムの影響を受けましたか？</p>
<p>いや、全く。９月11日の週、僕は米国内で何度も飛行機に乗り、次の週には日本、そしてシンガポールに飛んでいた。９月11日のもうひとつの皮肉は、まだビルから煙が上がっているときに、ニューヨーク・タイムズ紙から、その出来事について書いて欲しいという依頼があったんだ。でも僕は出来ないと断った。その日は、完成したばかりのイスラムとアメリカの衝突について書いた小説の校正をしなければならなかったから。</p>
<p>── あなたは新作で禅からイスラム、そしてキリスト教にいたるまで、精神性と宗教について多く書かれていますが時事的な出来事や、宗教VS発展のイデオロギーについてはどうお考えですか？ それは『The Global Soul』のような本であなたが説明している、ポストモダンな世界の見方にどう影響していますか？</p>
<p>イスラムの革命家と宗教的な信仰に関わるその他の多くの人々は、逆行することが発展につながると思っているような気がします。過去へ戻り、なにか本質的なものへと立ち返り、現代世界に背を向けることで。僕もある程度は共感できる。『The Global Soul』の主なテーマと僕の思考の多くは、文化を越えた雑音でしかない。熱狂的で、断片的で、高揚させるMTVのビデオのように見えたり、感じられｒたり刷る、あるｈ週ポストモダンな世界。そして現代世界のMTVコマーシャルを体験すればするほど、そこから抜け出させてくれるものへの欲求が生まれ、大抵その場合は、精神的なセミナーや伝統や信仰の素地となったりする。『The Global Soul』で、僕は自分と読者を現代のカオスのど真ん中へ連れていこうとしたんだと思う。ある意味、人がなぜモスクやセミナーや修道院に通ったり、自分たちが抜ける理由として感じている、あの騒然とした感覚や船酔い感や疲労感や時差ボケの感覚を表現しようとしたんだ。そして書き終えたばかりの本は、明確に伝統と信仰に根ざしていると思う。イスラム世界、対、僕がある意味、対極にあると考えているカリフォルニアとの対話について。</p>
<p>── 新作では、現在起きていることに応用できる、イスラムと西洋の和解について何か書かれていますか？</p>
<p>個々人がそれぞれの状況に直面することだね。主人公はみんなカリフォルニアの人間だけど、彼らは中東のどこかへ行くことで、慰めや謙遜や、自由さえ見つけ出す。それはかカリフォルニアのある人たちの間に潜む飢餓感みたいなもので、あまりに伝統がないために、他の古い文化が提供してくれるものを、喉から手が出るほどほしがっているんだ。それはある意味、人々が自分たちとは正反対の文化を夢見る方法についてのものさ。<br />
現在のムスリムとマック（マクドナルド）ワールドの議論の若いと、僕の本への回答に関していえば、ステレオタイプや憶測に斬り込んで、ほかの文化のニュアンスや異質さを見るのに、旅は友好だと信じています。ある意味、最近の出来事は、両世界の人々がステレオタイプを元に互いを非難し合っている状態だと思うから。ムスリムの急進派がアメリカを見た場合、その高圧的な政府（またはその大衆文化）しか見ておらず、アメリカ人もまた、ほとんど何も知らないイスラムを糾弾する。僕が思うに、どちらにしろ一番の解決策はどこかへ旅して、自分とどれだけ同じで、どれだけ違うかを知ることなんだと思う。<br />
去年の８月にアラビアで数週間過ごすことができてよかったと思うよ。９月11日、僕が一番有り難く思ったのは、イェーメンのアーデンという港町にいる一人の人間として、ひどく貧しく恵まれないアラビアの地域（実際、ウサマ・ビン・ラディンの生まれた場所の近くで）の視点で世界を見られたことだったしね。つまり僕にとって現代世界の大きな栄光は、大きく異なった状況にいる人の目に世界がどう映っているのかを体験できることなんだ。しかし世界の貧しい（たいていムスリムだが）人々が、僕らの方へやってくるほどの資金力はない。だから悲惨な状況で暮らす人々のところへ出向き、物事を見ることは、より恵まれた僕らにかかっている。僕らが変化を起こせるとしたら、そこだと思う。</p>
<p>── あなたの文章は、文学への自愛と知識に満ち溢れています。あなたの文章を読むと、文学と旅はなにか共通するものがあるという印象をうける。幽体離脱に似た体験のように。あるところで、あなたは「ゆっくりとページを捲ることで、別の自分の謎を探求する、読書の特別な喜び」について書いています。また、旅することで見出される、人の身になって経験する喜びについても触れています。一番悲しい別れは「外国の空港で、海外で得た勇敢で無責任な自分を脱ぎ捨て、いつもの仕事の生活を思い出しながら、自分に別れを告げること」と言っていますね。</p>
<p>それ、僕が書いたのかい！ おもしろいことに、３日ほど前、ドナルド・リッチーの『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/1880656698/ref=as_li_ss_til?tag=kneehighmedia-22&#038;camp=1027&#038;creative=7407&#038;linkCode=as4&#038;creativeASIN=1880656698&#038;adid=0490D3HKJKRV9AGGGQNN" target="_blank">Inland Sea</a>』を読み直してみて、ちょうど同じ結論に達したんだ。実際、先週、偉大な旅行者ほど偉大な読者だという、短いエッセイを書いたばかりで。それは旅行者というものが本来孤独で、彼らが訪れる先の文化に持ち込むものの一部に、彼らが読んできた本があるということ。ドナルド・リッチーのことを日本について書いた素晴らしく際立った作家だと思うのは、彼らがあらゆる文化で咀嚼してきた本の膨大な知識を持ち込み、ほかの多くの土地へと旅していることだ。彼が本の中で内海を彷徨し、ジョンソンやルソーやジェーン・オーステンを引き合いにだしながら持ち出してくる様々な本は、ただ三島や川端や紫式部を引用するだけでは得られないような広い視野を与えてくれる。ある意味、想像の中で起きているこの二つの孤独な探求には素晴らしいものがある。エマーソンは僕らがどうやって自分の読む本を発明していくのかを書いた。そして同じように、僕らは自分たちが訪れる場所を発明していくわけだ。</p>
<p>── あなたは「偉大な旅行者」と言っていますね。「いい旅行者」とはどういうものか、また「悪い旅行者」というのもあると思いますか？</p>
<p>有効に旅行するために必要なのは、特にそれぞれの憶測を家に残し、周囲の異質さにできるだけ身を預けること。旅の美学とは、突然、今まで想像していたことと全く正反対で、極端に違う視点で世界を見られるようになることだ。もし「いい旅行者」というものがあるとすれば、その人が訪れている先の人々の目を通して世界を見たいと欲する人間のこと。もし「悪い旅行者」、もしくは「悪い観光客」というものがあるとすれば、それは家を出る前から固定観念をもってしまう人のことだ。<br />
また、いい旅行者とは、衝撃を受け変わるための心の準備ができている人だ。僕にとって唯一大事な本当の旅は、最初の憶測から離れ、内側で起きている。だから例えば、僕が休暇に出かけるとき、僕はハワイやパリやロンドンへは行かないようにする。それは僕の憶測や先入観を強めるだけのような気がするから。逆にハイチやエチオピアやイェーメンへ行くだろう。僕を揺るがし戻ってきたときに色々考えさせられると、結構自信を持って思えるから。カミュは、旅に価値を与えるのは恐怖だといった。それでも僕は恐怖だけを感じろと言っているのではなく、それがチャレンジと自分の心をかき乱してくれると信じている。</p>
<p>── それじゃ、休暇で旅行をするときもそんな欲求があるのですか？</p>
<p>僕は旅をすることで生計を立てていく幸運を得たために、いわゆる休暇というものには余り縁がないんだけど。最近僕がしているのは、毎年正月の休暇に母親をつれていくこと。でも母親を連れて行ったのは、カンボジアやイースタ島やシリアやヨルダン。だから70歳の母親を連れて行くにしても、面白くてチャレンジの出来る場所へ連れていこうとするんだ。往々にして、僕が世界で行くところは、ロスやニューヨークよりも安全なところさ。カリフォルニアや日本の家の居心地に慣れていると、家が安全でインドやカンボジアやハイチが危険だと思いがちになる。でも実際、統計的にもロスやワシントンはベイルートやプノンペンよりもずっと危険なんだ。日本はわりと安全だけどね&#8230;。</p>
<p>── いわゆる、あなたの日本の家は維持していくのですか？</p>
<p>選べるなら、僕は喜んで、一生日本に住んでもいいと思ってるよ。世界のどこを探しても、日本ほど自分に合い、尊敬し、好きな国は思いつかない。ここに観光ビザで住んでいるとしてもね。</p>
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ピコ・アイヤー<br />
1957年、ピコ・アイヤーはインド人の両親の下にイギリスで生まれた。1964年に両親が移住して以来、彼の家はカリフォルニア州サンタバーバラにあるが、彼は&#8221;そこにいるようでいない”。アイヤーは学校教育をオックスフォードで受け、９歳からカリフォルニアとイギリスをジェット機で往復してきた。オックスフォード大学で学び、ハーバード大学で文学と創作を教えながら、彼はヨーロッパのガイドブックを書いて過ごした。「道端で眠り、何も食べず、とても早く次の場所へと移動し、すぐに距離を測るという、とてつも安く旅をする訓練になった」こうした成果は、旅行、グローバリズム、文学、または現代の出来事について作家としての後のキャリアに役立った（３度のタイムズ紙のオリンピック特集をリードしたことも含む）。主な本は、『ヴィデオ・ライト・イン・カトマンズ』『ザ・レイディ・アンド・ザ・モンク』『ザ・グローバル・ソウル』。</p>
<p><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0679738347/ref=as_li_ss_til?tag=kneehighmedia-22&#038;camp=1027&#038;creative=7407&#038;linkCode=as4&#038;creativeASIN=0679738347&#038;adid=1D7256VCSE6HM3JJR6MZ">The Lady and teh Mon</a>k (1922, Knopf)<br />
アイヤー氏が伝統的な日本に魅了されていく様を彼自身の京都暮らしの経験を元に、現代日本で新しい未来を掴もうとしていくある女性との出会いを交えて描いた作品。</p>
<p><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0679776109/ref=as_li_ss_til?tag=kneehighmedia-22&#038;camp=1027&#038;creative=7407&#038;linkCode=as4&#038;creativeASIN=0679776109&#038;adid=0GY7N9XRQYGKGSZVRSYC">Tropical Classical</a> (1997, Knopf)<br />
ダライ・ラマのインタビューから度重なる飛行機での移動における彼の独白の引用など、多岐に渡るアイヤー氏のエッセイをまとめた作品。世界について、そして文学と旅について沸き起こる思想の数々は、項しがたく尊い。</p>
<p><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/0679776117/ref=as_li_ss_til?tag=kneehighmedia-22&#038;camp=1027&#038;creative=7407&#038;linkCode=as4&#038;creativeASIN=0679776117&#038;adid=1SAW1DDFC474PM852KYR">The Global Soul</a> (2000, Knopf)<br />
一定の場所、立ち位置からではなく、様々な異なる場所と文化の狭間から世界を見据えたものの視線。６冊目となるこの著書は、多様な大陸において自らの&#8221;家”を探し求める彼の、今日におけるポストモダンオデッセイだ。</p>
<p>取材・文：編集部<br />
This interview originally appeared in Paper Sky No. 1 (May, June, 2002)</p>
<p>English &#187; <a href="http://www.papersky.jp/2010/02/17/writer-traveler-global-soul-pico-iyer/">WRITER, TRAVELER, GLOBAL SOUL: PICO IYER</a></p>
<p><img src="http://www.papersky.jp/wp-content/uploads/2011/05/PicoIyer.jpeg" alt="" title="PicoIyer" width="528" height="352" class="alignnone size-full wp-image-8692" /></p>
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