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Old Japanese Highway、日本の古道 vol.10 奥会津&南会津

古道を歩けば、そこに息づく文化や暮らしをリアルに体感することができる。今回は会津若松と栃木県の今市宿を結んだ東北の大街道、下野街道(会津西街道)のお話。日本一の花嫁行列に農村歌舞伎の大屋台……ユニークな郷土の営みが続々登 […]

09/04/2019

古道を歩けば、そこに息づく文化や暮らしをリアルに体感することができる。今回は会津若松と栃木県の今市宿を結んだ東北の大街道、下野街道(会津西街道)のお話。日本一の花嫁行列に農村歌舞伎の大屋台……ユニークな郷土の営みが続々登場!
会津本道五筋(会津五街道)のひとつ、下野街道は、会津若松城と日光神領の今市宿を結ぶ全長およそ125kmの街道だ。会津若松と江戸を結ぶ最短ルートだったことから、会津藩や庄内藩、米沢藩などが参勤交代に利用した他、会津藩の年間数万俵にも及ぶ廻米(会津藩の米は江戸在住の藩士たちの扶養米になった)や奥会津いちの産業である麻を運ぶ産業道路としても栄えた。日光東照宮や二荒山神社、あるいは湯殿山へ至る信仰の道でもあり、戦国時代には伊達政宗や豊臣秀吉が、幕末には吉田松陰が、明治初期には“ヴィクトリアン・レディ・トラベラー”ことイザベラ・バードが日光から北上している。
旅のゲスト、メキシコ人のヴィヴィアナと待ち合わせをしたのは会津鉄道の会津高原尾瀬口駅。今回はここから会津若松の鶴ヶ城まで、約60kmの旅となる。駅前の国道352号を3kmほど歩くと121号に合流する。これが下野街道だ。そのまま街道をしばらく歩き、はじめに「奥会津博物館」に立ち寄った。館内で、研究員の渡部康人さんが奥会津の歴史や民俗を解説してくれる。奥会津は江戸時代、幕府直轄の南山御蔵入領として支配されていた。領地にはブナやトチの広大な針葉樹林が広がっていることからブナ材を利用した椀木地づくりが盛んで、つくられた木地は会津若松に送られ、会津漆器として全国に流通した。
「廻米、椀木地、麻、煙草などの物資が運ばれた下野街道ですが、その特徴に『』という独特の輸送形態があります。幕府公認の輸送手段は宿駅ごとに馬を乗り継ぐ伝馬制でしたが、自分で売買する品や自家消費物に限って付け通し、つまり宿駅での荷の積み替えなしに輸送することができたのです。駄賃稼ぎの商荷運送は禁じられていたものの、付け通すほうが合理的なことから、明治になるまでこの輸送形態は続きました。街道沿いには宿駅に宿泊できない仲付駑者のためにたくさんの馬宿が造られました」(渡部さん)
奥会津を代表する民俗が農村歌舞伎だ。歌舞伎のせいで農作業や家業がおろそかになることを危惧して幕府は民衆の歌舞伎を禁じたわけだが、南山御蔵入領では庶民の一大娯楽として特別に許されていた。領内の140村、170ヶ所の農村舞台で歌舞伎の興行が行われていたというから、全国有数の農村歌舞伎の興隆地といえそうだ。
「実際、麻の大商人らは豊富な資金を元手に歌舞伎の衣装や小道具のレンタル業を営んでいました。衣装をレンタルすると業者は“衣装回し”という、歌舞伎の演目に精通した専門の着付け係も派遣していたほど。こうして南山御蔵入領の歌舞伎文化が発展していったのです」
1760年ごろから農村舞台は可動性の舞台、つまり「山車」に変わり、そこで歌舞伎が上演されるようになった。その代表が、重要無形民俗文化財に指定されている「会津田島祗園祭」の屋台運行だという。
夕方、その田島に到着する。田島の祗園祭の発祥は鎌倉時代にまで遡り、現在も日本三大祗園祭と称されるほど。祗園祭にまつわる資料を展示する「会津田島祗園会館」には、祗園祭に登場する大屋台が常設展示されていた。
「会津田島祗園祭」は毎年7月22日から24日にかけて開催されており、花嫁行列こと「七行器行列」が特に有名だ。これは神前にどぶろくのお神酒、赤飯、鯖を納める行列で、男性は裃、女性は黒留袖の盛装で、未婚の女性は髪を島田髷に結った花嫁装束に身を包んで列に加わる。
お祭りのクライマックスは農村歌舞伎に端を発する大屋台運行だ。大屋台とは子ども歌舞伎を上演する移動舞台のことで、前側が舞台、後ろが楽屋になっている。2日行われる大屋台運行では「芸場」と呼ばれる氏子の家の前に屋台を停め、そこで子ども歌舞伎一幕を披露する。次の「芸場」へ屋台を引きまわすのは大人の役目だが、子どもたちは屋台の上から「オーンサンヤレカケロ」と大人たちを煽り立てる。輿は乗り、古来のけんか屋台をしのばせて祭りの盛り上がりも最高潮に。「会津田島祗園会館」の渡部友博さんは、「地元の人にとって盆暮れ正月よりも力の入るイベント」というけれど、歌舞伎のために生きていたという江戸時代から人々のメンタリティは変わっていないのかもしれない、なんて思うのだった。
その日の宿泊は田島の和泉屋旅館にて。昭和8年創業、戦後は進駐軍の指定旅館となった歴史をもつ。祗園祭では「芸場」に指定されていて、子ども歌舞伎を見学できる通りに面した部屋は1年前から予約が埋まるという。増改築を繰り返し、まるで迷路のように入り組んだ館内を女将さんに案内してもらったが、そこかしこに残る戦前・戦後の昭和の逸話の数々に、「博物館に泊めてもらっているみたい」とヴィヴィアナも感心しきりだった。
翌日は、下野街道歩きのイベントなどを行う「会津こぼうしの会」顧問の本島慶文さんをガイドに迎え、大内宿までを歩く。1667年の街道整備の際に構築された田部原一里塚、玄蕃という力持ちの伝説が残る「へいほう石」、樹齢1200年という「中山の大ケヤキ」、江戸時代の石畳が残る「沼山の石畳」など、この日の行程では見どころが次々に現れる。前日に比べると、旧道の趣を残した未舗装路や森のなかのトレイルも多い。本島さん曰く、「会津こぼうしの会」が主催する初夏のウォーキングイベントやガイドツアーでは、山菜採りを目的にする参加者も少なくないとか。
「山ウドにタラの芽、ワラビ……味噌を持参すれば摘んだそばから食べられるからね。真面目に歴史の足跡をたどってもおもしろいけれど、地元の食材や山の幸を味わえるのも街道ウォークの楽しみなんだって知ってもらいたいんだ」
2日目のゴール、大内宿は旧道の両側に茅葺き屋根の古民家が立ち並び、江戸時代の宿場町の風情を留めている。目抜き通りは500mほど続き、かつイザベラ・バードが投宿した美濃屋、大内宿の名物、「ねぎ蕎麦」発祥の地である三澤屋などが連なる。本陣を復元した「大内宿街並み展示館」では農業で生計を立てていた山深い村の営みが展示されていた。
翌日は、険しい峠と積雪の多さから「下野街道きっての難所」とされていた大内峠、氷玉峠を越えて会津若松へ。大内宿を後にすると「二十四人戦士墓」、「大内峠古戦場」など、戊辰戦争の史跡が目につくようになる。なかでも大内峠は会津軍にとって越えさせてはならない南側最後の要所で、大内峠の尾根伝いでは3日にわたって激しい戦闘が行われた。広葉樹に囲まれた、美しい切り通しのトレイルも、そんな背景を聞くと物悲しさを感じてしまう。
氷玉峠を下り、会津若松市、会津美里町、下郷町の境界である「三郡境の塚」を過ぎると旧道は県道131号線に合流する。瀬戸町で昔ながらのかき氷屋と1,300年の歴史を誇る、会津本郷焼の窯元「宗像窯」で寄り道してから一路、ゴールの鶴ヶ城へ。
「江戸時代から続く藍染の手仕事、博物館のような旅館、……湧水を汲んで古いトレイルを歩いたのもいい思い出。150年前のものが当たり前に存在するさまを間近にして、日本は時間の概念が違うって実感しました」とヴィヴィアナ。戦国時代、江戸時代そして現代へ。いくつもの物語が交差する街道は、時代を超えて旅人を魅了する。