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カニの思い出|PAPERSKY book club

独断で申し訳ないのだけれど、よく知っているにもかかわらず、食べるまで味が思い浮かばないものといえばスイカとカニだ。ぼんやりとした味というわけでもないのに、なぜ味が頭に浮かばないのかと考えると、味よりも先に、思い出がやって […]

10/12/2016

独断で申し訳ないのだけれど、よく知っているにもかかわらず、食べるまで味が思い浮かばないものといえばスイカとカニだ。ぼんやりとした味というわけでもないのに、なぜ味が頭に浮かばないのかと考えると、味よりも先に、思い出がやってくるからかもしれない。
まだ寒さの残る3月末、鳥取砂丘の近くの旅館で、僕は家族とカニを食べていた。鳥取に住んでわずか2年。ようやく学校にも慣れ、これから最終学年になるというのに、父親の転勤で鳥取から引っ越すことになったのだ。空になった家を出て、明朝の電車で引っ越し先に向かう。その夜、1泊した旅館で食べたのが日本海の松葉ガニ。カニの刺し身に始まり、焼きガニ、カニ鍋と続き、最後の雑炊までカニづくし。幸せな満腹感と、非日常に浮かれる気持ち、せっかく慣れたこの地を離れる寂しさがないまぜになって、なんともよりどころのない感情になったのを覚えている。それ以来ずっと、僕にとってカニといえば、味よりもまずあの夜のことだ。
同じようにカニに思い出のある一人の作家がいる。湊かなえだ。広島県尾道市、因島のみかん農家を営む家庭で育った彼女は、子どもの頃から冬になると兵庫県の城崎温泉を訪れ、カニづくしの料理を食べ、温泉を満喫するのが一家の恒例行事だった。その思い出を元に書かれたであろう物語が、この本『城崎へかえる』。カニの脚のような加工がなされた鮮やかな赤いカバーから、スルリと中身を引き抜くと、赤い糸でかがり綴じされた真っ白な本が現れる。ごく短い話なので内容はできれば実際に読んで楽しんで欲しいのだけど、この本、そう簡単には手に入らない。
出版社は、城崎温泉旅館の若旦那たちによって設立された「NPO法人 本と温泉」。彼らは城崎温泉を舞台に、作家が実際に現地に滞在し執筆してもらう、アーティストインレジデンスならぬ、作家イン温泉方式でユニークな出版物を刊行している。販売方法も近隣の温泉旅館やお土産屋でしか売らないという地産地消ぶり。この場所でしか売らないから、内容もパッケージも思い切ったものにできる。内容は実際に読んでからと書いたものの、それではレビューにならないので一言だけ書くと、この本を読めば間違いなくカニが食べたくなる。もしくは食べた気にさえなれる。カニにまつわる思い出がまた一つ増えた。
城崎へかえる 湊かなえ NPO法人 本と温泉